第二話 第◯次実験
願いに応え続ける世界に飽きた遍は、初めて自分の意志で「知らないこと」を作ろうとする。記憶と力を封じ、まっさらな人間として生きる実験——実験番号、四千七百十一。
昨夜の願いを、遍は一晩のあいだ、何度も反芻した。
明日は、何か知らないことが起きてほしい。そう思ってしまった瞬間、いつものように、世界はもうその願いに応え始めているはずだった。願いというものは、遍にとって、いつも言い終わる前に叶ってしまう。
果たして、朝から、世界は健気だった。
郵便受けには、宛名を間違えた誰かの絵葉書が入っていた。見知らぬ南の島の写真。窓の外には、これまで見かけたことのない三毛猫が来て、長いこと毛づくろいをしていった。昼には、隣町で小さな祭りがある、と回覧板が知らせてきた。昨夜の願いに応えて、世界が慌てて掻き集めてきた「知らないこと」の数々だった。遍は、そのひとつひとつを、届いた瞬間に見抜いた。包装だけが目新しくて、中身はぜんぶ、知っているものだった。絵葉書の差出人がどんな間違いをしたのかも、三毛猫がどの家で飼われているのかも、祭りの屋台で何が売られ、誰が転び、何時に雨が来て店じまいになるのかも、見た瞬間に、もう分かってしまう。世界は、遍のために驚きを用意することはできる。だが、遍から「分かってしまうこと」を取り上げることだけは、世界にも、できないのだった。
だから、自分で取り上げるしかない。
願うのではなく、作る。知らないことが向こうからやってくるのを待つのではなく、自分の手で、知らない場所を用意する。
その夜、遍は久しぶりに、机に向かった。
窓を細く開けると、夜気が机の上まで流れ込んできた。遠くで踏切が鳴っている。どこかの家の換気扇が、遅い夕食の油の匂いを夜に混ぜている。皿の触れ合う音。誰かの生活の、後片付けの音。遍はしばらく、その音に耳を澄ませた。この町の夜は、遍が知り尽くした夜だ。それでも、三十日後にこの夜気を吸う自分は、これを初めての匂いとして吸うことになる。そう思うと、嗅ぎ慣れたはずの夜の匂いが、少しだけ、他人の家の匂いのように感じられた。
引き出しの奥から、古い帳面を取り出す。表紙はとうに色褪せて、角も丸くなっている。革でも紙でもない、名前のわからない素材でできた表紙は、触れるたびにひんやりとしていた。何百回、あるいはそれ以上、開いてきた帳面だった。開けば、罫線の上に、几帳面な字でびっしりと記録が並んでいる。日付。条件。結果。短い所感。ページをめくる指先が、紙の厚みを覚えている。
遍は途中のページを、いくつか流し読みした。読むというより、確かめる、に近い動作だった。
ある頁には、「漁師として四十二日。天候を知らぬまま海に出ることの意味について」とだけ書かれていた。別の頁には、「言葉の通じぬ土地で三月。理解されぬことの静けさ」。またある頁には、ただ一言、「失敗」とだけ記され、その下に長い線が引かれていた。
頁を繰るほど、記録は短くなっていく。初めの方の頁には、条件も所感も長々と書き込まれているのに、あとの方になるほど言葉は削ぎ落とされて、番号と日数だけの頁も増えてくる。書くべきことが減ったのではなく、書いても仕方のないことが増えたのだろう、と遍は思う。
「隊商に加わり、砂漠をひと季節。革袋の水の減りだけを数えて歩く日々。渇きには、順番があった。喉、唇、まぶた。順番のあるものは、みな良い」と書かれた頁があった。
「北の海で、氷を割って進む船に三月乗る。言葉より先に、縄の結び方を覚える。手が覚えたものは、封じても、どこかに残る気がする」という頁もあった。この一行の横には、あとから別の筆で、「残らない」と素っ気ない訂正が入っていた。訂正の字も、遍の字だった。ただ、いつの遍の字なのかは、分からなかった。
一箇所だけ、頁が破り取られている場所があった。破った覚えが、遍にはない。前後の頁を読んでも、そこに何が書かれていたのかは推し量れなかった。番号がひとつ、そこだけ飛んでいる。遍は指先で、綴じ目に残った紙の耳をなぞった。世界のすべてを知っている者の手元に、こんなに小さな、知らない場所が残っている。奇妙なことだった。奇妙で——正直に言えば、ほんの少しだけ、悪くなかった。
どのページも、似たような書き出しで始まっている。「今回は」「今回もまた」「今回こそは」。同じ言葉が、違う筆圧で、何度も繰り返されている。字の癖が、ページによって微妙に違うことに、遍は今更ながら気づいた。同じ人間が書いたはずなのに、その時々で、少しずつ違う手が、この帳面を埋めてきたらしい。数えようとは思わなかった。数えたところで、何かが変わるわけではない。
最後の白紙のページを開き、遍はペンを取った。
実験番号、四千七百十一。
数字を書いてから、遍は少しのあいだ、その数字を眺めた。特別な感慨はなかった。四千七百十でも、四千七百十二でもいい数字だった。ただ、記録は記録として、正確でなければならない。それだけの理由で、遍は几帳面に数字を書き足した。
条件を、順に書き出していく。
期間、三十日。
その間、記憶と力を封じる。生まれてからこれまでのこと、この身に何が起きているかということ、そのすべてに蓋をする。残すのは、言葉と、常識と、人並みの身体の使い方だけ。あとは、まっさらな一人の青年として、三十日を生きる。名前は変えない。常盤遍、そのままでいい。名前まで奪ってしまえば、戻る場所が分からなくなる気がした。
線引きは、思いのほか難しかった。
記憶と知識のあいだには、はっきりした境目がない。箸の持ち方は、残す。自転車の乗り方も、残す。味噌汁というものの味を知っていることは、残す。だが、その味が誰の手のものだったかは、封じる。「行ってきます」という言葉の使い方は、残す。その言葉を、今夜、誰に向かって練習することになるのかは、封じる。そうやってひとつずつ、残すものと蓋をするものを仕分けていくうちに、遍には分かってきた。人間というのは、知識の袋ではなく、宛名の束なのだ。何を知っているかではなく、知っているもののひとつひとつが、誰に繋がっているか。封印とはつまり、言葉を残して、宛名だけを消していく作業だった。
遍はそこまで書いて、ペンを止めた。
次に書くべきは、解除の条件だった。三十日が過ぎれば自然に解ける。それは決めていた。だが、それとは別に、もうひとつ、条件を足すかどうか——足すとしたら、どんな言葉で書くか、遍はしばらく迷った。
万が一のための、安全装置のようなものだ。三十日のあいだ、遍は本当にただの人間になる。もし、その三十日のうちに、遍の手に負えない何かが起きたなら。取り返しのつかない何かが起きようとしているなら。そのときだけは、封印が解けるようにしておきたかった。
迷った末に、遍はペンを走らせた。書いた。だが、書き終えた一行を、遍は最後まで目で追わなかった。書いたことは確かだ。手が動いた感触は、確かに残っている。それで十分だ、と遍は思うことにした。読み返せば、また迷いが戻ってくる気がした。迷いを連れたまま、実験を始めたくはなかった。何を条件に選んだのか、遍自身、半分だけ忘れることにした。忘れたことにする、というのも、遍にとっては珍しい経験だった。
残りの条件は、事務的なものだった。三十日のあいだ、常盤遍という青年が、どこかの町で、当たり前に暮らしていられるだけの下地を整える。大学の二年生として、すでに一年以上そこに通っていたことになっている籍。駅から自転車で十五分の、古い木造アパートの一室。名義は遍のもの、家賃は口座から自動で引かれる設定。口座には、学生が生活するのに困らない程度の、あまりに切りのいい数字が入っていた。友人と呼べる誰かがいるかどうかまでは、遍にも決められなかった。そこだけは、三十日の遍自身に任せるしかなかった。
一からすべてを用意するのは、骨の折れる作業のはずだった。だが遍にとっては、思い浮かべることが、そのまま用意することだった。頭の中で「そういうことになっている」と定めた瞬間、世界の方が、辻褄を合わせにいく。大学の名簿にも、アパートの契約書にも、すでに何年も前からそうだったかのような、古びた説得力が宿っていく。遍は、その仕組みの気味悪さに、今更ながら少しだけ、居心地の悪さを覚えた。誰かの人生の土台を、こんなにも簡単に用意できてしまうことに。
書きながら、ひとつだけ、遍にも答えの出せない問いが残った。封印は、遍の内側に栓をする仕掛けだ。だが、世界の側の癖——遍が望む前に叶えてしまう、あの先回りの癖までは、栓の外にある。三十日のあいだ、世界は行儀よく、ただの世界のふりをしていてくれるだろうか。それとも、栓をされた遍の周りで、相変わらず気を利かせ続けるのだろうか。考えても、分からなかった。封印の向こう側のことは、何ひとつ計算が立たない。それがこの実験の欠陥であり、同時に、遍がこの実験をやめられずにいる理由でもあった。
最後に、遍は白紙を一枚、机の上に置いて、しばらく迷った。三十日の自分に宛てて、書き置きを残すかどうか。困った時のための、指針のようなもの。「無理はするな」でも、「人を疑うな」でも、何でもいい。書きかけて、やめた。指針を持たされた三十日は、もう白いページではない。書き手の影が、行間に残ってしまう。遍は白紙を、白紙のまま帳面に挟んで戻した。三十日の常盤遍は、誰の言葉にも寄りかからず、自分の失敗を自分で選べばいい。それが、この実験の中でたったひとつの、贅沢な部分だった。
前にも、似たようなことをした覚えがある。何百年前だったか、ある港町で漁師として四十二日を過ごした時も、似た支度をした。あの時は、途中で船主の娘と親しくなりすぎて、四十二日という期限が来ても、遍はしばらく漁を続けた。結局、娘が年老いて先に世を去るまで、遍はその町を離れなかった。記録には「失敗」とだけ書いた。何が失敗だったのか、遍は今でも、正確には言葉にできない。娘との日々が失敗だったとは、どうしても思えなかったからだ。
ただ、覚えていることがある。娘は年を重ねるごとに、遍の変わらない顔を見て、笑うようになった。「あんたは海の神様の忘れ物だ」と言って、それ以上は何も訊かなかった。訊かないでいてくれる人の隣は、静かだった。娘の葬列が浜を行った日、港には季節外れの凪が来た。遍が望んだのか、海が勝手に気を利かせたのか、今でも分からない。数少ない「分からないこと」のひとつとして、遍はあの凪を、大事に覚えている。
今回もまた、同じ轍を踏むのかもしれない。踏んでもいい、と遍は思った。今の遍が恐れているのは、何かに深入りすることではなく、何にも深入りしないまま、また白い一日を積み重ねることの方だった。
帳面を閉じ、遍は台所へ向かった。
母のこのはが、鍋の前に立っていた。湯気の向こうで、味噌の匂いがしている。何百回、何千回と嗅いできたはずの匂いなのに、今夜は少しだけ、鼻の奥に長く残るような気がした。
「遍、お鍋、もうすぐできるから座ってて」
このはが振り返らずに言う。遍は「うん」と答えて、いつもの席に着いた。卓袱台の木目も、置かれた箸の位置も、いつも通りだった。狂いがない。それが今夜は、少しだけ、ありがたく思えた。
夕食は、いつもと変わらない味だった。豆腐と葱の味噌汁、焼いた魚、炊いた青菜。このはは、遍の茶碗にご飯をよそいながら、今日あった近所の出来事を話した。隣の犬が脱走したこと、八百屋の主人が腰を痛めたこと、そういう、取るに足らない話ばかりだった。遍は相槌を打ちながら、その話のひとつひとつを、いつもより長く覚えておこうとした。
「遍、なんだか今日は静かね」
「そう?」
「うん。何か考え事?」
遍は少し迷ってから、正直に答えた。
「明日から、しばらく留守にするかもしれない」
「あら、旅行?」
「そんなようなもの」
このはは、それ以上は深く聞かなかった。昔からそうだった。遍が何かを決めた時、それがどんな決断であっても、このはは詮索せずに、ただ「そう」とだけ言って受け入れる。その距離感が、遍にとってはいつも、ありがたかった。踏み込まれないことの優しさというものが、この世にはある。
「どのくらい留守にするの」
「一月くらい」
「じゃあ、帰ってきたら、また鍋にしましょうか。今日と同じの」
「うん。それがいい」
「向こうでも、ちゃんと食べなさいよ。あんた、放っておくと同じものばっかり食べるんだから」
「そんなことないよ」
「あるの。母親は知ってるの」
母親は知ってるの、という言い方を、遍は胸の内で繰り返した。知っている、という言葉の、こんなに軽くてあたたかい使い方が、この世にはある。すべてを知っていることと、あんたのことは知ってるのよと笑うことのあいだには、たぶん、渡れない川が一本、流れている。遍は「気をつけます」と、少しおどけて頭を下げた。このはが笑った。その笑い方も、遍のよく知っている笑い方だった。知っていて、なお、見飽きなかった。
「そういえば、あんた、小さい頃からそうだったのよ」
このはが、思い出したように言った。
「黙って考え込んで、こっちが呼んでも聞こえてなくて。覚えてる? 保育園の帰りに、田んぼの前でしゃがみ込んで、おたまじゃくしをずっと見てたこと。日が暮れても動かないから、先生と二人で探し回って」
「……そうだったかな」
「そうよ。あんたは覚えてないでしょうけど」
覚えていなかった。それが、思い出せないだけなのか、それとも、はじめから存在しない記憶なのか——調べれば、瞬きひとつのあいだに分かる。遍のいる場所から、その答えまでの距離は、いつだって、ないに等しい。遍は、味噌汁を一口飲んだ。豆腐が、舌の上で静かに崩れた。調べなかった。おたまじゃくしを眺めている幼い自分の姿は、このはの記憶の中にだけ、置いたままにしておくことにした。本当かどうか分からないままの思い出は、本当だと確かめてしまった思い出よりも、なぜか、あたたかい場所に仕舞われる。
遍は、いつだったか、熱を出して寝込んだ時のことを思い出した。何年前だったか、それも正確には覚えていない。あの時、このはは一晩中、遍の枕元に座って、濡れた手拭いを額に載せ替え続けていた。遍の熱など、遍自身が望みさえすれば、瞬きのあいだに引かせることができたはずだった。だが、あの夜、遍はそれをしなかった。このはの手が、額の上でひんやりと動く感触を、もう少しだけ味わっていたかったからだ。朝になって熱が引いた時、このはは「治ってよかった」と、心から安堵した顔で笑った。遍は、その顔を見て、初めて「治す」ということの意味を、少しだけ理解した気がした。自分で治すのと、誰かに治ることを願われて治るのとでは、同じ結果でも、まるで違う重さがある。
食事のあいだ、遍は何度か、このはの顔を見た。この人は、この人の作る味噌汁は、この人の笑い方は、いったいいつからここにあるのだろう。考えたことは、これまでにも、あった。だが、答えを確かめようとしたことは、一度もなかった。確かめれば、何かが変わってしまう気がした。変わってほしくないものが、遍にはいくつかあり、このはとの夕食は、その筆頭だった。
食事を終え、遍は玄関で靴を履いた。今夜のうちに、決めたことを済ませておきたかった。
「行ってきます」
その一言を、遍は口の中で、もう一度だけ、小さく繰り返した。行ってきます。行ってきます。ありふれた言葉のはずだった。だが、口に出してみると、その言葉の輪郭が、思ったよりもずっと不確かなことに気づいた。「行ってきます」は、帰ってくることを前提にした言葉だ。帰る場所があって、初めて意味を持つ言葉だ。遍はこれまで、この言葉を、ほとんど使ったことがなかった。出かける先のすべてが、遍にとってはすでに知っている場所で、帰ってくることに、特別な意味などなかったからだ。
練習のように、遍はもう一度言い直した。
「行ってきます」
このはが、台所から顔を出して、笑った。
「何度も言わなくても、ちゃんと聞こえてるわよ」
「……そう」
「気をつけて。ちゃんと帰ってきなさいよ」
「うん」
遍は頷いて、外に出た。夜の空気は冷たく、遠くで犬が鳴いていた。ありふれた夜だった。少なくとも、今のところは。
夜道を、遍は三十分ほど歩いた。行き先は決まっていた。今夜のうちに、一度だけ、自分の目で見ておきたい場所があった。
川を渡り、大学の裏手に回ると、そのアパートはあった。二階建ての、古い木造。外階段の鉄が錆びて、自転車置き場のトタン屋根が、街灯の光を鈍く返している。二階の角部屋。カーテンのない窓が、夜の色をそのまま映していた。
部屋の中は、見なくても分かっている。六畳の和室。日に焼けた畳。前の住人が残したのだと誰もが思うはずの、壁の画鋲の穴。押し入れの上段の、少し傾いだ棚板。どれも、今日までこの世に存在しなかったものだ。存在しなかったのに、確かに一年ぶんの古び方をしている。遍が「そういうことになっている」と定めた瞬間から、この部屋は一年ぶんの過去を持ち始めた。誰も住んだことのない部屋に染みついた、誰かが住んでいた気配。遍はその暗い窓を見上げながら、自分のしたことの奇妙さを、他人事のように思った。
明日の朝、この部屋で目を覚ます青年は、あの画鋲の穴を、前の住人の暮らしの跡だと信じるだろう。窓の建て付けの悪さに舌打ちをして、家賃の引き落とし日を気にして、寝坊をして、慌てて外階段を駆け下りるだろう。その足音を、遍は聞くことができない。聞ける頃には、遍自身が、その足音の主だからだ。
帰り際、大学の正門の前を通った。夜の構内は静かで、守衛室の小窓だけが灯っていた。掲示板には、サークル勧誘の色褪せたビラが、何枚も重なって貼られている。この門を、明日からの自分は、何十回もくぐることになる。遅刻しそうになりながら、あるいは、誰かと並んで。その光景を、遍は思い描こうとして、やめた。思い描けてしまったら、台無しだからだ。先を見ない、という楽しみ方を、遍はずいぶん久しぶりに、思い出そうとしていた。
自分の部屋に戻り、遍は布団に入らずに、畳の上に座った。開けたままだった窓から、夜気が入り続けている。踏切の音は、もう鳴らない。町は眠りに入りかけていた。帳面を開き、実験番号四千七百十一のページを、もう一度だけ見つめる。
三十日。記憶と力を封じ、まっさらな一人の青年として生きる。それだけの、単純な実験だった。単純だからこそ、これまで何千回と、似た実験を繰り返してきたのかもしれない。
遍は、目を閉じた。
これから起きることを、遍は知らない。知らないままにしておくと決めた。三十日後、自分がどうなっているか。誰と出会い、何を思うか。そのすべてが、初めて、遍にとって真っ白なページになる。
白い時間ではなく、白いページだ、と遍は思った。何が書き込まれるか分からないという点で、今日までとは違う種類の白さだった。
少しだけ、怖くもあった。怖いという感覚を、こんなにはっきりと感じるのも、久しぶりのことだった。怖さの輪郭を、遍はしばらく、ただ黙って味わっていた。悪くない感触だった。
遍は、静かに、封印を起動した。
世界が、暗くなった。
それは、比喩ではなかった。遍の内側で、常にともっていた無数の光——次に何が起きるか、誰が何を言うか、この先に何が待っているかを、絶えず照らし続けていた光が、ひとつ、またひとつと消えていく。最初はゆっくりと、やがて雪崩のように、遍を包んでいたすべての「知っていること」が、音もなく消えていった。
最初に消えたのは、遠い光だった。海の向こうの、まだ誰の名前もついていない出来事。百年先の空模様。誰も掘り当てていない水脈の在り処。それから、近い光が消えていった。この町の明日。商店街の福引きの結果。隣の犬が次に脱走する日。灯りは、遠くから順に、遍のいる場所へ向かって、静かに消えていった。最後まで残っていたのは、台所のいちばん小さな光——このはが明日の朝、味噌汁に何を入れるつもりでいるか、だった。それも、ふっと、消えた。
最後の光が消える直前、遍はふと、ひどく懐かしい感覚を覚えた。
それは、暗闇だった。
生まれて初めて——少なくとも、遍が覚えている限りでは初めて——遍の前に広がったのは、何も見えない、何も分からない、正真正銘の暗闇だった。
遍は、闇の中で、目を閉じたまま、小さく笑った。
怖くはなかった。ただ、久しぶりに、心臓が少しだけ速く動いている気がした。
これが、どんな三十日になるのか。誰と出会い、何を失敗し、何を「今回もまた」の一行に書き足すことになるのか。四千七百十二回目があるとして、その書き出しは、今回とは違う言葉で始まるだろうか。
遍には、もう、分からなかった。
その分からなさが、遍には、何よりも懐かしかった。まるで、長いあいだ閉め切っていた部屋の窓を、久しぶりに開けたような気がした。入ってくる風がどんな匂いを運んでくるのか、遍にはまだ、見当もつかなかった。
意識が、ゆっくりと薄れていく。最後に浮かんだのは、このはの「気をつけて」という声だった。その声を最後に、常盤遍という名前だけを残して、遍は三十日ぶんの自分自身を、暗闇の向こうへ手放した。