第三話 目覚まし時計は鳴らない

記憶を失った常盤遍が、大学二年生として目覚める朝。目覚まし時計は鳴らず、雨には濡れ、財布はほとんど空——それでも、理由の分からない多幸感だけが、胸の底で灯っている。

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目覚まし時計は、鳴らなかった。

常盤遍が目を開けたとき、部屋の中は、すでに白っぽい昼前の光で満ちていた。枕元の時計を見て、遍はしばらく、数字の意味が頭に入ってこなかった。九時五十二分。一限の講義は、九時に始まっている。

電池が切れていた。裏蓋を開けて確かめるまでもなく、針が止まっていることで分かった。誰のせいでもない。ただの電池切れだった。それだけのことに、遍は妙に苛立った。目覚まし時計というものは、鳴るべき時に鳴るべきだ。鳴らなかったことに対して、遍は理由を求めたくなったが、理由は「電池が切れていた」以上には、どこにも見当たらなかった。

布団を蹴り飛ばすようにして起き上がり、遍は服を引っ掴んだ。シャツのボタンを掛け違えたことに、外に出てから気づいた。掛け直す時間はなかった。髪もろくに整えないまま、遍はアパートの外階段を駆け下りた。

冷蔵庫を開ける暇もなかった。棚の隅にあった食パンの端を一枚、口に押し込みながら、遍は玄関で靴を履いた。パンは、思ったより硬かった。硬いということに、驚いている自分がいた。硬さも柔らかさも、これまでずっと、噛む前から分かっていたはずだった。今朝は、分からなかった。分からないまま、口の中で咀嚼するしかなかった。それだけのことに、遍はなぜか、少しの間、手を止めた。

自転車は、鍵が固かった。焦って回す指先が、鍵山を何度も滑った。ようやく開いた頃には、遍の額に汗がにじんでいた。ペダルを漕ぐ足に、いつもより力が入らない気がした。息が上がるのも早い。身体というのは、こんなにも思い通りにならないものなのか、と遍は漕ぎながら思った。思っただけで、その思いつきの奇妙さには、自分では気づかなかった。

途中、空が急に暗くなった。最初の一粒が頬に当たったとき、遍は反射的に、雨脚が弱まるのを待った。何を待っているのか、自分でもよく分からない待ち方だった。雨は弱まらなかった。むしろ強くなった。前髪から水が滴り、シャツが背中に張りついた。遍は舌打ちをして、そのままペダルを漕ぎ続けた。避けようのない雨に、まるごと降られるというのは、こんな感触なのか、と遍は思った。避けようがないという事実そのものに、なぜか、拳を握るような苛立ちと、うまく言えない安堵が、同時に湧いた。両方が同時に来ることの意味を、考えている余裕はなかった。

大学の裏門をくぐる頃には、講義開始から二十分が過ぎていた。教室の扉を、遍はできるだけ音を立てないように引いた。無駄だった。蝶番が、狙いすましたように軋んだ。

教壇に立つ、白髪交じりの教授が、講義を止めて遍を見た。

「常盤くん。今日は、講義を聴きに来たのか、それとも、扉の建て付けを確かめに来たのかね」

教室のあちこちから、小さな笑いが漏れた。遍は「すみません」とだけ言って、後ろの席に滑り込んだ。頬が熱かった。恥ずかしいという感覚を、遍はこの数日で何度か味わっていたが、今日のそれは、いつもより強かった。強いということが、遍には、少しだけ新鮮でもあった。

講義の途中、教授が出席簿を見ながら、名前を呼んで質問を投げる場面があった。「常盤くん、この場合の解釈は」。遍は、聞いていなかった箇所を問われて、答えに詰まった。教室が静かになる。隣の席の学生が、小さくノートを滑らせて、直前の板書を見せてくれた。遍は礼のつもりで小さく頷き、板書の文字をそのまま読み上げた。教授は、それで満足したのか、次の学生へと移っていった。助けられた、という感覚が、遍の中に、じんわりと残った。誰かに助けられるという経験も、遍にとっては、今日という日の、新しい手触りのひとつだった。

講義の内容は、半分も頭に入らなかった。空腹のせいもあった。遍は財布の中身を思い出そうとして、正確な数字が出てこないことに気づいた。確か、三千円と少し。それだけで、今日から次の仕送りまでの何日かを、どうにかしなければならない。計算しようとしても、日数と金額がうまく噛み合わない。頭の中で何度も繰り上げたり繰り下げたりしているうちに、講義は終わっていた。

財布を開けて、遍は数え直した。千円札が三枚と、小銭が少し。合わせて三千二百四十円。これが、今の自分のすべてだった。

すべて、という言葉が、遍の中で奇妙な感触を残した。すべてが、こんなに軽くて、こんなに数えやすいものだということに、遍はどこか安堵している自分に気づいた。安堵する理由は、遍自身にも分からなかった。財布が軽いということは、普通、困ったことのはずだった。それなのに、遍の胸の奥は、なぜか凪いでいた。

学食に行くには、財布が心もとなかった。遍は購買で、いちばん安いパンを一つだけ買った。あんパン、百二十円。廊下のベンチに座って、包みを開ける。

一口食べて、遍は手を止めた。

甘い。ただ、それだけのことだった。だが、その甘さが、口の中に広がるまでの、ほんの一瞬の間——遍はその一瞬を、どう扱っていいか分からなかった。次に来る味を、遍は知らなかった。当たり前のことのはずだった。パンを食べれば、パンの味がする。それだけのことに、遍はなぜか、長いこと見ていなかった景色を見るような気持ちになった。

廊下の向こうから、大きな声が近づいてきた。

「うわ、常盤じゃん。お前も一限出てたの? 俺、寝坊して行けなかったんだけど、聞いた話だと今日の教授、機嫌悪かったらしいな。誰かが遅刻して当てつけ言われたって、マジで誰だよ、貴重な出席点持ってかれた奴、可哀想にな」

声の主は、遍と同じ学部の男だった。名前は、確か——火渡迅。遍の記憶は曖昧だったが、廊下ですれ違えば挨拶を交わす程度には、顔馴染みのはずだった。

「その、遅刻したの、俺」

「は?」

迅は一瞬、目を丸くしてから、盛大に笑い出した。

「マジかよ。常盤が? お前、いっつも時間ぴったりに来るタイプだと思ってたわ。授業始まる三十秒前にすっと席着いてるイメージ」

遍は、その評価に、答える言葉を持たなかった。自分がこれまでどんな学生だったのか、遍にはうまく思い出せない。ただ、迅の言葉には、どこか的を射ているような気配があった。理由は分からないが、遍は頷いておいた。

「なあ、それより聞いてくれよ。俺、今日、めちゃくちゃついてなくてさ」

迅は、遍の返事も待たずに喋り始めた。バイト先のシフトを間違えられたこと、昨日パチンコで有り金をほとんど溶かしたこと、先週から口説いている後輩に、今朝また軽くあしらわれたこと。ひとつひとつが、迅にとっては大事件らしかった。声は大きく、身振りも大きく、話が脱線するたびに、また戻ってくる。遍は黙って聞いていた。相槌を打つ間もほとんどないほど、迅の話は途切れなかったが、それが不思議と、心地よかった。

「——で、結局、パチンコ屋出る時に思ったんだよ。今度こそ勝つって。次こそはって。毎回そう思うんだけど、毎回負けるんだよな、俺」

「懲りないんだね」

「懲りるとかそういう話じゃなくてさ」迅は、真剣な顔で言った。「負けても、次の台に座るときは、毎回、今度こそって思えるんだよ。それがいいんだよ。分かる? 分かんねえよな」

遍は、分かるとも分からないとも言わなかった。ただ、迅の言葉が、頭の中に、思ったより長く残った。

廊下の途中で、迅の携帯が鳴った。画面を見た迅の顔が、一瞬で強張った。

「あ、やべ。バイト先だ」迅は舌打ちしてから、電話に出た。「もしもし、あ、店長、すんません、今日のシフトなんですけど——え、代わり見つからないと出れないって、いや俺も無理言ってるのは分かってるんすけど——」

電話の向こうの声は、遍のところまでは届かなかった。だが、迅の表情がみるみる曇っていくのは、はっきり見えた。通話を切ると、迅は大きなため息をついて、頭を抱えた。

「詰んだ。今日のバイト、代わり見つからなかったら罰金みたいなペナルティ食らう。誰かおらんかな、代わってくれる奴」

「僕、バイトしてないから、代われないけど」

「知ってる知ってる。常盤に振ってるわけじゃねえよ、独り言」

迅は携帯の電話帳を、指で忙しくスクロールし始めた。次の相手に掛ける前から、もう表情が変わっている。困り果てているはずなのに、その困り方のどこかに、次はどうにかなるという気配が、はっきりと滲んでいた。遍は、その切り替わりの速さに、目を離せなかった。困っている最中に、もう次の手を探している。困ることと、諦めないことが、迅の中では、少しも矛盾していないらしかった。

「常盤、飯食った? そのパンだけ?」

「うん」

「金欠?」

「うん、それなりに」

「俺もだよ。二人合わせても、たかが知れてるけどな」迅は、自分のポケットから小銭を出して数え、遍の三千二百四十円と足し合わせて、しばらく計算していた。「よし、学食の一番安いうどんなら、二人分、いける。行こうぜ」

遍が答える前に、迅はもう歩き出していた。追いかけるように、遍も立ち上がった。

学食のうどんは、出汁の匂いが濃かった。湯気の向こうで、迅はうどんをすすりながら、また別の話を始めていた。単位のこと、実家からの仕送りが減らされそうなこと、来月の合コンの誘いに誰を呼ぶか。話は次々と移り変わり、そのどれもが、迅にとっては真剣そのものだった。

遍は、うどんを一口食べた。出汁の味は、想像していたよりも塩気が強かった。想像していた、という感覚に、遍は少し戸惑った。食べる前に、味の見当がつくということ自体、自分でも当たり前だと思っていたが、その見当が外れるということもあるのだと、今、初めて知った気がした。

「常盤ってさ、あんまり自分の話しないよな」

迅が、不意にそう言った。

「そう?」

「そう。何考えてるか、いまいち分かんない。でも、話聞いてくれるから、嫌いじゃないけど」

遍は、何と返せばいいか分からず、器の中の出汁を見つめた。話すことがない、というのとは、少し違う気がした。ただ、言葉にしようとすると、途中で何かが引っかかって、うまく先に進まない。今朝から、何度かそういうことがあった。何かを言いかけて、最後まで言い切らずに、口をつぐんでしまう。理由は、遍自身にも分からなかった。ただの癖なのだろう、と思うことにした。

「別に、話すこと、そんなにないから」

「まあ、それならそれでいいけどさ」

迅は、それ以上は深追いしなかった。器を空にして、満足げに息をついている。

「あ、そうだ。忘れてた」迅は、思い出したように顔を上げた。「来週、レポートの締切あるの知ってる? 俺、まだ一行も書いてない」

「僕も、まだ」

「よし、仲間だ」迅は、なぜか誇らしげに言った。「常盤も書いてないなら、まだ焦らなくていいってことだな」

「その理屈は、変だと思う」

「変じゃねえよ。締切ってのはさ、破りそうな奴が二人いれば、半分怖くなくなるんだよ」

遍は、その計算のどこにも根拠がないことは分かったが、迅の顔を見ていると、根拠のなさそのものが、この男の元手なのだという気もしてきた。

「今日はもう帰る。倉庫整理のバイトの電話、これから掛けなきゃだし」

「うん」

「常盤、次いつ会える? まあ講義でどうせ会うか」迅は立ち上がりながら、遍の肩を軽く叩いた。「今日、飯奢ってやったんだから、そのうち何か奢れよな」

「奢れるほど、僕も余裕ないけど」

「そん時はそん時だろ。今から心配すんな」

迅はそう言って、片手を挙げると、来た時と同じ勢いで、廊下の向こうへ歩いていった。遍はしばらく、その後ろ姿を見送った。今から心配するな、という言葉が、妙に胸に残った。遍にとっては、まだ試したことのない考え方だった。

昼を過ぎ、講義の合間の空き時間、遍は自転車置き場のそばで、ぼんやりと空を見上げた。今日は、朝から何もかもがうまくいかなかった。目覚まし時計は鳴らず、遅刻をし、教授には嫌味を言われ、財布はほとんど空で、あんパン一つを一人で食べる羽目にもなりかけた。

それなのに。

遍は、その「それなのに」の続きを、うまく言葉にできなかった。うまくいかなかった一日のはずなのに、胸の内側が、なぜかひどく軽い。理由の見当たらない多幸感が、朝からずっと、遍の胸の底に、小さな火のように灯り続けていた。困っていたはずなのに、困っているという感覚と、この軽さが、同じ場所に同時にあることが、遍には不思議だった。不思議だと感じること自体、いつからか久しくなかった気がしたが、その「いつから」を、遍は思い出せなかった。

迅と別れたあと、遍は生協の前の掲示板に立ち寄った。単発バイトの張り紙が、何十枚も画鋲で留められている。日払い、時給千円、力仕事、軽作業。文字を目で追いながら、遍は妙な緊張を覚えた。どれを選べばいいのか、選ぶための基準が、自分の中にひとつも見当たらなかった。時給の高さで選ぶべきか、日にちの都合で選ぶべきか、それとも別の何かか。決められないまま、遍はしばらく、ただ紙の並びを眺めていた。

隣で同じ掲示板を見ていた見知らぬ学生が、「これ、けっこう楽らしいっすよ」と、倉庫整理の張り紙を指差して教えてくれた。遍は礼を言い、その番号を控えた。控えながら、自分がこんなふうに、見知らぬ誰かの言葉を頼りに、次の一歩を決めることに慣れていないのだと気づいた。慣れていない、という感覚そのものが、遍には目新しかった。

生協の前にあるATMで、遍は残高を確かめてみることにした。表示された数字は、三千二百四十円と少しの他に、ひとつだけ、あまりにも切りのいい数字が並んでいた。仕送りにしては、妙に丸まった額に見えた。誰がこんな額を振り込むのだろう、と一瞬思ったが、考えたところで思い当たる顔は浮かばなかった。仕送りとは、そういうものなのかもしれない。遍はそれ以上考えず、明細を折りたたんで、財布に押し込んだ。

午後の講義は、湿気のこもる大教室だった。朝の雨が乾ききらないまま、大勢の体温と混ざって、教室全体をぬるく包んでいた。教授の声は低く、単調で、板書の文字は細かかった。

三十分も経たないうちに、遍のまぶたが、重くなり始めた。

眠気だった。ノートを取る手が遅れ、文字の最後の一画が、意図しない方向へ流れていく。遍は何度か首を振り、ペンを握り直した。効き目は、数分と持たなかった。まぶたは、遍の都合をまるで確かめずに、勝手に降りてこようとする。自分のものであるはずの身体の中に、自分の言うことを聞かない部分がある。その部分が今、まぶたの裏側で、静かに、しかし堂々と居座っていた。

隣の席では、見知らぬ学生が、腕を枕にして眠っていた。教授は気づいているのかいないのか、声の調子ひとつ変えずに、板書を続けている。遍は、眠気と綱引きをしながら、残りの時間をどうにか持ちこたえた。講義が終わる頃には、ノートの後半のページは、自分の字とは思えないほど乱れていた。乱れた字を見下ろして、遍は少しのあいだ、それを書き直すべきかどうか考えた。書き直さないことにした。この乱れは、今日の午後、確かに自分がここで眠気と引き合っていた、その綱の跡だった。

図書館に寄って、聞き逃した一限の内容を、遍は借りたノートで埋め合わせようとした。だが、講義の要点よりも、ノートの持ち主の癖のある字の方に、目が吸い寄せられた。丸っこい文字、ところどころに引かれた波線、余白に書かれた小さな落書き。誰かの手が動いた跡というものを、遍はこれまで、こんなに長く眺めたことがなかった気がした。窓際の席で、日が傾くまで、遍はそのノートを読み続けた。内容の半分も頭に入らなかったが、悪くない時間だった。

夕方、下宿に帰る道すがら、自転車のチェーンが外れた。舌打ちをして、遍は道端にしゃがみ込み、油で汚れた手でチェーンを掛け直した。うまくいかず、何度もやり直した。指先が真っ黒になった。

ようやく直り、遍は自転車を押して歩き出した。夕焼けが、道の先まで長く伸びていた。

その夕焼けの色を、遍はしばらく、立ち止まって眺めた。

昨日と同じ夕焼けだったのかもしれない。明日も、似たような夕焼けが来るのかもしれない。だが、遍には、それが分からなかった。分からないということが、こんなにも、目の奥を熱くさせるものだとは、遍は知らなかった。

手のひらの油汚れを見下ろしながら、遍は小さく笑った。

今日は、ろくな一日ではなかった。目覚まし時計は鳴らず、雨には丸ごと降られ、教授には嫌味を言われ、財布はほとんど空になり、自転車のチェーンにまで手こずった。数え上げれば、悪いことばかりの一日だった。

だが、悪くない一日だった、とも思った。その両方が同時に本当であることに、遍はまだ慣れていなかった。何かが上手くいかないという感触には、これほどの手応えがあるのかと、遍は今日一日で、何度も驚かされた。うまくいかないことの一つひとつが、遍の中に、小さな傷のような、それでいて消したくない跡を残していく。傷という言葉は、正しくない気もした。傷というよりも、たぶん、爪痕に近い。今日という日が、確かに自分の身に触れていった証拠のようなものだった。

川沿いの道を歩きながら、遍は迅の言葉を思い出していた。負けても、次の台に座るときは、毎回、今度こそって思える。あの言葉の意味を、遍は今朝までは、うまく飲み込めなかっただろう。今は、少しだけ分かる気がした。今度こそ、という言葉は、次に何が起こるか分からない者にしか、贈られない言葉だった。

慣れていく途中の、頼りない足取りのまま、遍はアパートへの道を歩いた。

部屋に戻ると、朝の雨に濡れたシャツが、着たまま乾いた分だけ、ごわついて肌に残っていた。脱いで確かめると、雨と汗の混ざった、くたびれた匂いがした。アパートの近くにコインランドリーがあることは、来る途中に見かけて知っていた。洗濯機一回、二百円。遍は財布の中身を思い浮かべ、少し考えてから、流しでシャツを洗うことにした。

石鹸を溶かした水の中で、シャツを揉む。指の間から、薄く濁った水が滲み出てくる。すすいで、絞る。絞り方が甘かったのか、ハンガーに掛けたシャツの裾から、畳の上に水が落ちた。遍は雑巾でそれを拭い、シャツの下に新聞紙を敷いた。二百円を惜しんだ結果としては、ずいぶん手間のかかる夜だった。それでも、窓辺に掛かったシャツが夜気で揺れるのを眺めていると、今日という日の始末をひとつ、自分の手で付けたような、小さな区切りの感触が残った。

夕食は、棚に残っていた袋麺にした。小鍋に湯を沸かし、袋の裏の作り方を、遍は二度読んだ。麺を入れて、三分。その三分のあいだに、洗ったシャツの位置を直し、戻ってきたときには、麺はもう伸び始めていた。時間というものは、目を離した分だけ、きっちり進んでいるらしかった。

伸びた麺は、頼りない歯ごたえだった。スープの色も、袋の表の写真より、ずっと薄かった。うまくできなかった、という結果だけが、湯気を立てて鍋の中に残っていた。遍は、鍋のまま啜った。うまくはなかった。ただ、この頼りない歯ごたえは、遍が三分を見誤った、その見誤りの形をそのまま留めていた。どこにも、あらかじめ用意されていなかった味だった。遍は、次は表示より早めに火を止めよう、と思った。次、という言葉が、思いのほかすんなりと出てきたことに、自分で少しだけ驚いた。

電池を買い忘れたことに気づいたのは、布団を敷こうとして、目覚まし時計の針が、また同じ場所で止まっているのを見たときだった。

遍は、コンビニまで電池を買いに走ろうかと、少し迷った。迷った末に、やめた。明日も、この時計は鳴らないかもしれない。鳴らなければ、また今日のような朝になる。それでいい、と遍は思った。理由は、自分でもうまく説明できなかった。

天井を見上げながら、遍は今日一日の出来事を、順番に思い返した。電池切れの時計。硬いパンの端。丸ごと降られた雨。教授の嫌味。板書を見せてくれた隣の学生。大きな声で喋り続ける迅と、その半分も頭に入らなかった愚痴。切りのいい残高。湿った教室の眠気。誰かの字の跡が残るノート。うまく直せなかったチェーン。伸びる夕焼け。窓辺で揺れるシャツ。伸びた麺。

どれも、小さな出来事だった。取り立てて語るほどのことは、何ひとつなかった。それでも、そのひとつひとつが、今日という日にしかなかった手触りを持っていた。同じ出来事は、たぶん、明日にはもう起こらない。そのことが、遍には、まだうまく実感できないでいた。実感できないまま、ただ、悪くないと思った。

ただ、鳴らない目覚ましを見つめながら、遍は久しぶりに、明日のことを、何ひとつ心配せずに、布団に入った。