第四話 写らない人
学食で出会った写真部の汐見千景が、遍の写真を見せてくる——「あなた、写真だと変なの」。ピントは合っているのに、そこだけ嘘みたいに見える一枚から、小さな違和感が動き出す。
目覚まし時計は、その朝も鳴らなかった。
それでも遍は、体内のどこかにある目盛りのようなものに従って、時計より先に目を覚ました。理由は分からない。ただ、身体の方が、電池の切れた時計より、少しだけ律儀だった。
朝食は、湯を沸かして、白湯を一杯だけ飲んだ。食パンは、昨日の朝で尽きていた。空きっ腹のまま自転車を漕ぐと、ペダルをひと漕ぎするたび、腹の底が小さく鳴った。身体の中に、几帳面に催促をしてくる住人が一人いる。空腹というのは、そういう感じのものだった。
おかげで今日は、遅刻せずに一限に間に合った。教壇の教授は、遍の顔を見ても、何も言わなかった。何も言われないというのも、これはこれで、拍子抜けするような静けさがあった。
教室の隣の席には、昨日、板書を見せてくれた学生が座っていた。目が合うと、相手は小さく会釈をした。遍も返した。名前は知らない。知らないまま、昨日ひとつ借りができて、今日こうして会釈を交わしている。名前より先に借りができる、という順番があるらしかった。遍は、講義のあいだ、いつもより丁寧にノートを取った。借りを返す当てはまだなかったが、少なくとも、次に誰かが困ったときに見せられるノートを、持っておきたかった。
講義のあいだ、遍は窓の外を眺めながら、財布の中身を計算していた。三千二百四十円から、昨日の学食代を引き、今日の分を差し引くと、あと数日で底を突く計算になる。数字が減っていく感触には、まだ慣れなかった。減るというのは、こんなにも具体的な不安を連れてくるものなのかと、遍は毎回、少しだけ驚かされていた。
学食は、昼時になると、いつも混んだ。
券売機の前に列ができ、食器の触れ合う音と、湯気と、何十人ぶんの話し声が、天井の高い空間にまとめて響いている。遍は、この騒がしさが、思いのほか嫌いではなかった。ひとつひとつの声は聞き取れないのに、全体としては、生活の音としか呼びようのない音になる。
遍は列に並び、いちばん安い定食を選んだ。三千二百四十円は、迅と分け合ったうどんの分だけ目減りしていたが、それでも今日一日をどうにか食いつなぐくらいの余裕は、まだ残っていた。トレイを持って席を探していると、窓際の四人掛けの一角に、シャッター音が続けて響いているのが聞こえた。
一人の女子学生が、一眼レフを構えて、学食の様子を撮っていた。周りの学生たちは、慣れているのか、気にする様子もなく食事を続けている。遍がその近くの、ひとつだけ空いていた席に座ると、女子学生はカメラを下ろし、遍の方を一瞬だけ見て、また構え直した。
定食を半分ほど食べ終えた頃、その女子学生が、トレイを持って遍の向かいの席に、断りもなく座った。
「ねえ、あなた」
遍は箸を止めて、顔を上げた。目の前にいたのは、髪を無造作にひとつに束ねた学生だった。カメラを首から提げたまま、彼女はカメラの背面液晶を、遍の方に向けた。
「これ、見て」
液晶に映っていたのは、さっき遍が席を探していた瞬間の一枚だった。学食の喧騒、行き交う学生たち、トレイを持って歩く遍自身。ピントは、遍にきっちり合っている。それなのに、写真の中の遍だけが、どこかおかしかった。
輪郭は、他の誰よりも、くっきりしている。それなのに、色が薄い。周りの学生の制服や髪の色は、写真の中でそれなりの厚みを持って写っているのに、遍のところだけ、まるで後から薄い紙を重ねて貼り付けたように、平べったく見えた。影の落ち方も、どこかちぐはぐだった。窓からの光は、遍の右側から差しているはずなのに、遍の輪郭に落ちる影は、左側にわずかにずれている。
「あなた、写真だと変なの」
女子学生は、そう言って、液晶を睨むように見つめた。
「ピントは合ってる。露出も、他の人と変わらない。なのに、なんでか、そこだけ嘘みたいに見える。合成写真、って言われたら信じるレベル」
彼女は液晶を操作して、別の一枚を出した。数分前、遍が定食を受け取っている場面だった。厨房の湯気、盛り付けを待つ列、遠くの窓から差す光。どれも、ごく普通の一枚に見えた。ただ、遍の輪郭だけが、やはりどこか浮いていた。周りの湯気の白さと、遍の腕の白さが、同じ白でありながら、まるで違う紙に印刷されたように、質感が噛み合っていない。
「もう一枚、撮ってもいい?」
千景は返事を待たずに、カメラを構えた。シャッターが切られる。液晶を確認して、彼女は小さく息を吐いた。
「やっぱり」
「やっぱり、何」
「三枚とも、同じ癖がある。あなたが変なんじゃなくて、あなたの周りの光の方が、あなたのことだけ、律儀すぎるくらい正確に扱ってる感じ。逆に不自然になるくらい」
「そう、なんだ」
遍にとって、それは初めて見る自分の姿だった。写真に写った自分を見るのは、たぶん、これが初めてではないはずだが、今この瞬間の遍には、比較する記憶がなかった。ただ、目の前の写真が、何かおかしいということだけは、遍にも分かった。分かったところで、何がどうおかしいのか、その正体までは掴めなかった。
「別に、責めてるわけじゃないの」女子学生は、遍の表情を見て、少し早口になった。「ただの現象として、気になっただけ。他意はない」
「僕も、初めて言われた」
「でしょうね。自分じゃ、気づきにくいと思う」
彼女は、汐見千景と名乗った。写真学科の三年生で、この学食も、課題のスナップ撮影でよく使う場所らしかった。遍が名前を告げると、千景は「常盤くん、ね」と、確かめるように呟いて、それきり名前のことには触れなかった。
千景は、カメラを構え直すこともせず、遍の顔を、じっと見た。見られることに、遍は妙な落ち着かなさを覚えた。値踏みされているのとも違う。品定めされているのとも、少し違う。ただ、視線の質が、これまで遍が浴びてきたどの視線とも違っていた。
「常盤くんって、写真、撮られるの苦手?」
「分からない。あまり、撮られたことがない気がする」
「気がする、って」千景は、片眉を上げた。「自分のことなのに」
「うまく、言えなくて」
「うまく言えないことが多い人?」
遍は、その質問に、すぐには答えられなかった。多いのかもしれない、と思ったが、それを言葉にする前に、また同じ癖が出た。言いかけて、止まる。千景は、遍が黙り込むのを、急かさずに待っていた。急かされないというのは、遍にとって、珍しい経験だった。
「たぶん、多いと思う」
「ふうん」
千景は、それだけ言って、カメラのストラップを指で弄びながら、窓の外を見た。話を切り上げる気配ではなかった。ただ、次の言葉を選んでいるような、静かな間だった。
沈黙を破ったのは、千景の方だった。
「学食で撮るの、好きなの」
「そうなんだ」
「人って、食べてるあいだだけ、顔から用事が消えるから。講義中とか、歩いてるときの顔は、みんな、次のことを考えてる顔なの。食べてるときだけ、今のことしか考えてない。だから、ここで撮る」
遍は、周りの席を見渡した。丼に顔を近づけている学生。友人の話に笑いながら、箸だけは止めない学生。言われてみれば、どの顔にも、講義室では見かけない緩み方があった。
「常盤くんは、逆」
「逆?」
「食べてるときも、顔から用事が消えない。……ううん、違うな」千景は、少し首を傾げて、自分の言葉を確かめるように言い直した。「用事なんて、なさそうなのに、消えてもいない。変な言い方だけど」
遍は、箸を持ったまま、自分の顔のことを考えた。考えたところで、自分の顔は、自分では見えなかった。見えないものについて、こんなに具体的に言い当てられるのは、奇妙な経験だった。
言い返そうとして、遍はまた、言葉の途中で止まった。言いかけて、止まる。この数日、何度も繰り返している癖だった。理由を、遍自身も知らなかった。千景は、遍のその止まり方を、しばらく黙って見ていた。何かを観察するときの、静かな間があった。
「まあ、いいけど」
千景は、それだけ言うと、カメラを構え直して、また別の席の方にレンズを向けた。会話は、それで終わったように見えた。だが千景は、シャッターを切りながら、独り言のように続けた。
「写真って、嘘をつけない場所だと思ってる。目で見てるときは誤魔化せることも、レンズを通すと、隠れてたものが出てくる。だから、変なものが写ると、気になる」
「僕は、変なものなんだ」
「変、とは言ってない。ただ、写らない、とは思った」
その言い方が、遍の中に、しばらく残った。写らない、という言葉の意味を、遍はうまく飲み込めなかった。写真には、確かに写っている。だが千景の言う「写る」は、遍が考えている「写る」とは、別のものを指しているようだった。
「写っては、いると思うけど」
遍がそう言うと、千景は、少しだけ遍の方に向き直った。
「写ってる、っていうのは、そこにいた、っていう記録のこと。写る、っていうのは、その人の中身が、紙の上まで届いてること。別のものなの」
「僕は、届いてないんだ」
「今のところは」千景は、カメラの縁を親指でなぞりながら言った。「だから、気になる。届いてないのか、それとも、届かないように、どこかで堰き止められてるのか」
堰き止める、という言葉を、遍は胸の内で繰り返した。誰が、何を、どこで堰き止めているのか。問いの形も定まらないまま、その言葉は、思いのほか深いところまで沈んでいった。
定食を食べ終え、遍が席を立とうとすると、千景がふと、思い出したように言った。
「常盤くんって、運、良い方?」
「どうして」
「なんとなく」千景は、レンズ越しに窓の外を見ながら言った。「そう見えただけ」
遍は、その質問に、すぐには答えられなかった。運が良いかどうか、考えたこともなかった。トレイを返却口に置きながら、遍は今朝からのことを思い返した。目覚まし時計は鳴らず、雨には丸ごと降られた。運が良いとは、到底言えない一日のはずだった。
「良くはない、と思う」
「そう」
千景は、それ以上、深追いしなかった。遍は会釈をして、学食を出た。
廊下で、迅と鉢合わせた。今日は違うシャツを着ている。腕には、昨日とは別のバイト先の名札が付いていた。
「常盤、なんか顔死んでるけど大丈夫か」
「そういうわけじゃないけど」
遍は、さっきの写真の話を、かいつまんで話した。迅は、腕を組んで、真剣な顔で聞いていた。
「写真だけ変って、それ怖くね? 心霊系のやつじゃん」
「そういうのとは、違うと思う」
「絶対違うって言えるほど、常盤、自分のこと分かってなくない?」迅は笑いながら、遍の肩を小突いた。「まあでも、その写真部の子が言うなら、そういうこともあるんだろうな。俺、そういう繊細な話、よく分かんねえもん」
「繊細な話、なんだ」
「知らねえけど、なんかそんな感じするじゃん、写真とか、光とか」
「迅は、写真、撮られるの平気?」
「俺? 全然。むしろ盛れてないと怒るタイプ」迅は、真顔で言った。「顔なんて、人に見られてなんぼだろ」
見られてなんぼ、という考え方が、遍には新しかった。迅の中では、見られることと生きていることのあいだに、ほとんど隙間がないらしかった。
迅は、それ以上は深く考える気配もなく、次の話題——近々開かれるらしい合コンの人数調整の話に移っていった。遍は、その切り替わりの早さに、少しだけ救われる気がした。深刻に受け止められるよりも、この程度に流してもらう方が、今の遍には都合が良かった。都合が良い、という言葉を思い浮かべた瞬間、遍は自分でも気づかないまま、小さく顔をしかめた。
午後の講義が終わり、遍は自転車置き場に向かった。定期入れを取り出そうとして、上着のポケットが空であることに気づいた。落とした、と思った瞬間、今朝からの記憶を辿った。学食で椅子から立ち上がったとき、ポケットの中身がずれた感触があった。あの時だ、と遍は思った。
財布の中を確かめると、定期入れがあった場所に、当然のように何もなかった。遍は今来た道を、記憶を頼りに引き返した。学食の入り口、廊下の曲がり角、階段の踊り場。目についた床を、しゃがみ込んで確かめもした。誰かに聞こうかとも思ったが、聞く相手も思いつかなかった。探すという行為には、当てずっぽうの割合が、思ったより大きいのだと、遍は今更ながら知った。手がかりのなさに、じわりと焦りが滲んだ。定期券を失くせば、当分の通学に、また別の出費がかかる。今の財布には、その余裕はなかった。
学食まで戻ろうかと迷っていると、自転車置き場の管理小屋の方から、警備員が遍を呼び止めた。
「常盤くん、だよね。さっき、これ届いたよ」
差し出されたのは、遍の定期入れだった。中身は、何一つ減っていなかった。学生証も、定期券も、財布に挟んでいた小銭までも、そのままだった。
「学食の子が届けてくれたんだ。えらいねえ、最近の学生は」
遍は礼を言って受け取った。受け取りながら、胸の奥に、ごく小さな違和感が生まれた。
落とし物が、届く。それ自体は、別に奇妙なことではないはずだった。世の中には、親切な人間がいる。落とした定期入れを拾って、届けてくれる人間がいても、何もおかしくはない。
だが、遍には、うっすらとした既視感があった。これが初めてではない、という感触だった。いつ、どこで、何を落として、それがどんなふうに戻ってきたのか、具体的な記憶は、どこにもなかった。それなのに、「またか」という感覚だけが、確かにあった。
遍は、定期入れを開いて、中を確かめた。定期券には、いつも通りの、乗り慣れた区間が印字されている。何もおかしなところはない。おかしなところがないということ自体が、遍には、少しだけ、おかしく思えた。
思い返せば、似たようなことは、この数日で他にもあった。一昨日、講義に出るための百円が足りずに困っていたとき、道端で見知らぬ人が小銭を落としていくのを見た。拾って渡そうとしたら、その人はもう雑踏に紛れていて、結局、遍の手元に、ちょうど百円だけが残った。あのときは、単なる運だと思って、深く考えなかった。今日の定期入れと、あの百円を並べてみると、共通の何かがある気がした。うまく困ったときに、うまく助けが来る。助けの来方が、いつも、ぎりぎり不自然にならない程度に、控えめだった。控えめすぎて、これまでは気にも留めなかった。
自転車を押しながら、遍はしばらく考えた。今日一日を振り返れば、うまくいかないことばかりだった。目覚まし時計、雨、教授の嫌味、財布の中身。だが、その一方で、困った瞬間には、必ず誰かが手を差し伸べてくれた。隣の学生がノートを見せてくれた。生協前の学生がバイトを教えてくれた。そして今、定期入れが、中身をそのままに戻ってきた。
悪いことと、良いことが、同じ密度で、代わる代わる起きている。それだけのことなのかもしれない。世の中とは、そういうものなのかもしれない。
それでも、遍の胸の奥には、拭いきれない小さな引っかかりが残った。うまくいかないことは、いかにも「うまくいかない」という顔をして起きるのに、うまくいくことの方は、いつも、当然のような顔をして起きる。まるで、うまくいかないことの方が例外で、うまくいくことの方が、初めから決まっていた結末であるかのように。
考えすぎだ、と遍は思うことにした。今日は、色々なことがありすぎた。
帰り道、遍は商店街の外れにある小さな定食屋に寄った。今日の出来事を考えると、財布に余裕はなかったが、それでも一日の終わりに、温かいものを一つくらい口にしたい気分だった。
カウンター席に座り、いちばん安い焼き魚定食を頼む。店主の老婆が、無言で皿を並べていく。テレビは、誰も見ていないのに、隅の方でつけっぱなしになっていた。ニュースが流れ、それから、天気予報が続いた。明日は晴れ、降水確率は低い、と画面の女性が告げていた。
焼き魚の身をほぐしながら、遍は今日のことを、順に思い返した。写真の中で、自分だけがどこか嘘みたいに見えたこと。定期入れが、何ひとつ欠けることなく戻ってきたこと。数日前の、ちょうど百円だけ落ちていたこと。ひとつひとつは、些細な出来事だった。だが並べてみると、そこに、ある種の律儀さが浮かび上がってくる気がした。困ったことは、いかにも困った顔をして起きる。助かったことは、いつも、助かったという顔すらせずに、静かに済んでいる。
老婆が、湯呑みに茶を注ぎ足しながら、「兄さん、今日は静かだねえ」と声をかけてきた。遍は「そうですか」とだけ返した。返しながら、この店に来たのが、今日が初めてなのか、それとも何度か来たことがあるのか、遍にはうまく思い出せないことに気づいた。老婆の顔にも、何かを見覚えているような、見覚えていないような、あいまいな親しみがあった。
「兄さん、前にも、うちに来たことあったかねえ」
老婆が、思い出そうとするように、目を細めた。
「いや……たぶん、初めてだと思います」
「そうかい。昔、よく似た人が来てた気がしたんだけどねえ。気のせいだね。歳を取ると、顔がみんな繋がっちまう」
老婆は、そう言って、テレビの方に目を戻した。遍は、焼き魚の残りをつつきながら、よく似た人、という言葉を、しばらく箸の先で転がしていた。自分は、この店に来たことがあるのだろうか。思い出そうとすると、記憶は、ある場所から手前が、妙にのっぺりとしていて、手がかりになる凹凸がなかった。まあ、人違いだろう。遍は、そう思うことにした。そう思うことにする、という処理の仕方を、この数日で、遍は少しずつ覚え始めていた。
定食を食べ終え、遍は勘定を払った。財布の中身が、また少し軽くなった。軽くなること自体には、もう慣れてきていた。ただ、軽くなった財布の隣に、今日拾い直した違和感が、静かに残っていた。
夕方、アパートへの帰り道、遍はふと、学食での千景の言葉を思い出した。写らない、という言葉。運が良い方か、という質問。ふたつの言葉が、頭の中で、なぜか同じ場所に並んで収まった。
写真の中で、自分だけが嘘みたいに見えるということ。定期入れが、何ひとつ欠けることなく戻ってくるということ。そのふたつのあいだに、何か繋がりがあるのかもしれない、と遍はぼんやり思った。だが、繋がりの形までは、見えなかった。
見えないまま、遍は自転車を漕いだ。
部屋に戻り、灯りをつけて、遍は返ってきた定期入れを机の上に置いた。表紙の擦れ方も、中の定期券の折り目も、いつも通りだった。何度見返しても、おかしなところは見つからない。おかしなところが見つからないという結果だけが、今日いちばん、遍を落ち着かない気持ちにさせていた。
布団に入る前、遍はもう一度、千景の言葉を思い出した。「あなたの周りの光の方が、あなたのことだけ、律儀すぎるくらい正確に扱ってる」。写真の中の話のはずだったが、その言葉は、定期入れにも、百円にも、そのまま当てはまる気がした。律儀すぎる、という言葉が、遍の中に、棘のように残った。
写らない。律儀すぎる。堰き止められてる。並べてみると、今日一日で手元に残った言葉は、どれも千景のものだった。一日の終わりに、他人の言葉がこんなに手元に残っているのは、初めてのことのような気がした。言葉というのは、もらった瞬間よりも、あとから効いてくるものであるらしかった。
誰かに相談するような話でもなかった。相談したところで、何を相談すればいいのかも、遍には分からなかった。ただ、今日という日を境に、これまで気にも留めなかった小さな都合の良さが、遍の目に、ほんの少しだけ、違う色で映るようになっていた。
灯りを消し、遍は天井を見上げた。
今日という一日の中で、千景に見つめられていた、あの静かな視線の質感だけが、妙に長く、遍の中に残っていた。値踏みでもなく、同情でもない、ただ「見る」ことだけに徹した視線。あんな目で見られたのは、今日が初めてのような気がした。
気がした、というだけで、確かめる術は、遍にはなかった。