第五話 ファインダー

千景の視野は、少しずつ欠けていく。病名を語らず、ただシャッターを切り続ける彼女が、遍の写真に見た「何も我慢していない顔で、何かをずっと我慢している人」という矛盾。

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朝、電車の窓際に立って、汐見千景は流れていく景色を眺めていた。

いつもと同じ路線、いつもと同じ時間帯だった。工場の煙突、川沿いの桜並木、踏切の警報機。見慣れた景色のはずなのに、千景は無意識に、首から提げたカメラのストラップを指で確かめていた。病院に着くまでは、シャッターを切らない。それが、千景が自分に課している、ちょっとした決め事だった。撮ってしまうと、その景色を「撮れた」ことにして、安心してしまう気がした。今日という日だけは、撮らずに、ただ目に焼き付けておきたかった。

窓の外を、見慣れたものたちが順番に流れていく。千景は、その順番を、そらで言えた。製紙工場の煙突。川沿いの桜並木。自動車教習所の、色褪せた立体看板。順番を覚えるつもりなんてなかったのに、何年も同じ電車に乗っていると、景色の方が勝手に身体に入ってくる。目をつぶっていても、今どのあたりを走っているか、揺れ方と音で見当がつく。それが、千景には、頼もしいような、うっすらと薄気味悪いような、両方の感触があった。見なくても分かるようになった景色から、順番に、見なくなっていくのかもしれなかった。

眼科の待合室は、いつも同じ匂いがした。

消毒液と、古い雑誌と、空調のかすかな埃っぽさが混ざった匂い。汐見千景は、その匂いを嗅ぐたびに、今日がその日であることを、身体の方が先に思い出す気がした。予約票の番号を確かめ、千景は隅の椅子に腰を下ろした。

三ヶ月に一度の、定期検査だった。もう何年も続けている。数えようと思えば数えられるが、千景は数えないことにしていた。数えることに、意味を感じなくなったからではない。数えてしまうと、その数字が、これからも増え続けることを、否応なく認めることになる気がしたからだ。

待合室には、他にも何人かが座っていた。杖をついた老人が、看護師に呼ばれて、ゆっくりと立ち上がる。母親に手を引かれた小さな子供が、退屈そうに床のタイルの模様を目で追っている。子供は、そのうちタイルの継ぎ目を辿って、待合室を一周し始めた。母親が小声で名前を呼ぶ。子供の靴の底が、リノリウムの床で小さく鳴った。千景は、その光景を、カメラを構えずに、目だけで撮った。ここでは、シャッターを切る気になれなかった。この場所にいる誰もが、千景と同じ種類の時間を、それぞれのやり方で待っている気がしたからだ。

隣の席に、杖を持った老婦人が腰を下ろした。何度か、この待合室で見かけたことのある顔だった。向こうも千景を覚えていたらしく、会釈のあとで、千景の首元のカメラに目を留めた。

「あんた、いつも、それ提げてるね」

「はい」

「仕事かい」

「半分は」

「そう。いいねえ」老婦人は、それ以上は聞かずに、膝の上で両手を重ねた。「撮っといで、たくさん」

撮っといで、という言い方が、千景の耳に残った。行っといで、と同じ調子だった。この待合室では、誰も、なぜ撮るのかを聞かない。聞かない理由を、たぶん、それぞれが自分の目の中に持っている。

名前を呼ばれ、千景は診察室の奥にある、暗い小部屋に通された。

顎を、冷たい台に乗せる。片目を、遮眼子で覆う。目の前には、小さなドーム状の機械。ドームの中心には、消えない小さな光点があった。

「では、真ん中の光をずっと見ていてください。周りの方で、別の光が見えたら、すぐにボタンを押してくださいね」

技師の声は、毎回、判で押したように同じだった。千景は「はい」と答えて、光点を見つめた。

検査が始まる。周辺のどこかで、小さな光が、一瞬だけ灯る。見えれば、ボタンを押す。見えなければ、何もしない。ただ、それだけの検査だった。単純な作業のはずなのに、この数分間ほど、千景が自分の視界そのものと向き合う時間は、他になかった。

光が灯る。見える。押す。

光が灯る。見えない。何も起きない。

見えなかった、という事実だけが、機械のどこかに記録されていく。千景には、見えなかった場所を、後から確かめる術がない。見えなかったことに気づくことすら、千景にはできない。見えなかった、という空白は、千景の意識の外側で、静かに積み上がっていくものだった。

検査が終わり、明るい診察室に戻ると、医師がモニターに、今日の結果を映し出した。中心に近い部分は、白く塗りつぶされている。見えている範囲だ。その白い部分の外側に、灰色の縁があり、さらに外側は、黒く沈んでいる。

「前回と比べて、ここの部分が、少しだけ狭くなっていますね」

医師は、モニターの一箇所を指し示しながら、淡々と言った。千景は、その言い方に、慣れていた。深刻ぶらず、かといって軽んじもしない、ちょうどいい温度の声。千景は、その声のトーンを、むしろありがたく思っていた。

「進行の速さは、前回までとだいたい同じくらいです。今のペースなら——」

医師は、そこで一度、言葉を切った。千景の顔色を、確かめるような間だった。千景が黙って頷くと、医師は続きを話した。生活上の注意点、次回の予約、新しく出た点眼薬の説明。千景は、ひとつひとつに、相槌を打った。相槌を打ちながら、頭の中では、別のことを考えていた。今、自分に見えている景色のうち、どの部分が、次に灰色に沈むのだろう。窓の外の景色だろうか。誰かの顔の、輪郭のあたりだろうか。それとも、もっと違う、まだ想像もついていない場所だろうか。

診察の最後に、医師はモニターの画像を、前回のものと並べて見せた。ふたつの白い形は、素人目には、ほとんど同じに見えた。ほとんど、というところに、すべてが入っていた。千景は、ふたつの画像を、写真を見るときと同じ目で見比べた。構図の狂い。露出の差。そういうものを見つけるのと同じやり方で、自分の視野の縁が、どこで削れたのかを探した。見つけられなかった。自分のことなのに、他人の撮った二枚の風景写真を、見比べているようだった。

「何か、聞いておきたいことはありますか」

医師が、最後にそう尋ねた。千景は、少し考えてから、首を横に振った。聞きたいことは、本当はいくつもあった。だが、そのどれもが、答えを聞いたところで、進行が止まるわけではない質問だった。それなら、聞かずにおく方がいい。千景はそう決めていた。まだ見えているもののうちに、見ておきたいものの方が、千景には多かった。

病院を出ると、外は、よく晴れていた。千景は、首から提げたカメラを構え、空を一枚だけ撮った。何のための一枚かは、自分でもよく分からなかった。ただ、今日という日の空の色を、記録しておきたかった。

大学までの道すがら、千景はいつもより、多くのものにレンズを向けた。電柱に貼られた色褪せたポスター。側溝の蓋の模様。信号待ちの間に見た、隣の車のフロントガラスに映る雲。パン屋の店先で湯気を上げる、焼きたてのパンの照り。八百屋の軒先に積まれた蜜柑の、揃わない大きさ。どれも、取り立てて美しいものではなかった。どれも、明日もそこにあるはずのものだった。明日もあるはずのものを、今日のうちに撮っておくのが、千景のやり方だった。検査の後は、いつもこうだった。目に映るものすべてが、急に、期限付きのものに見えてくる。

途中、商店街の外れにある小さな写真店に寄った。間口の狭い、古い店だった。ショーケースの中では、型の古いカメラが、値札をつけたまま日に焼けている。千景がフィルムの棚に手を伸ばすと、店の奥から、白髪の店主が顔を出した。

「汐見さん。いつもの?」

「はい。三本ください」

「三本ね」店主は、棚から箱を取りながら、独り言のように言った。「これも、メーカーがそろそろ作るのをやめるって話だよ。フィルムってのは、そういうものばっかりになっちまった」

「じゃあ、あるうちに、買っておきます」

「そうしなさい。なくなってから欲しがっても、遅いからね」

店主は、笑いながら三本を紙袋に入れた。なくなってから欲しがっても、遅い。千景は、代金を払いながら、その言葉を胸の中で受け取り直した。店主は、フィルムの話をしただけだった。それでも千景には、その一言が、今日の検査室のドームの中まで、まっすぐ届く言葉に聞こえた。あるうちに。見えるうちに。撮れるうちに。

紙袋の中で、フィルムの箱が軽い音を立てた。三本ぶんの、まだ何も写っていない時間だった。

千景は、鞄の内側に、小さな手帳を一冊入れている。撮っておきたいものの名前を、思いついたときに書き留めておくための手帳だった。頁をめくると、脈絡のない名前が並んでいる。祖母の家の、廊下の突き当たりの光。夜の学食の、椅子が全部机に上げられた床。雨の日の、バスの窓の内側。書いたものから順に撮って、撮り終えたら、線を引いて消す。消した線の数だけ、千景の手元には写真が残る。頁の残りは、まだ厚かった。厚いうちに、と千景は思う。思うだけで、焦りはしなかった。焦って撮った写真が、ろくなものにならないことは、もう知っていた。

大学に戻り、暗室で、千景は今日撮ったフィルムを現像した。赤いランプの下で、印画紙に少しずつ像が浮かび上がってくるのを、千景は毎回、飽きずに眺めた。この暗室にいる時間だけは、視野のことを考えずに済んだ。目の前の作業に、意識のすべてを注ぎ込むことができた。定着液の匂い。バットの中で印画紙を挟む、トングの先の音。時計の代わりに、頭の中で数える秒数。暗室の中では、時間は目で見るものではなく、手と耳で数えるものだった。それが、千景には、合っていた。

カメラを持つようになったのは、高校の終わり頃だった。視界の端に、初めて違和感を覚えたのと、写真部の見学に誘われたのが、ほとんど同じ時期だった。偶然だったのか、それとも、何かに引き寄せられるようにして、その両方が重なったのか、千景自身にも、今となっては判別がつかなかった。最初にファインダーを覗いたとき、千景は妙な安心を覚えたのを、今でも覚えている。四角い枠の中に世界を切り取ると、切り取った分だけ、世界が確かなものになる気がした。

目のことを、最初に医師から説明された日の帰り道を、千景は今でも覚えている。母は、隣で黙って歩いていた。千景が覚えているのは、その日の帰り道の電柱の影がやけに濃かったことと、母が夕飯に、千景の好きなものばかり並べたことだった。泣かれるより、ずっとよかった。あの日から、千景の時間には、うっすらと目盛りが振られた。目盛りの振られた時間の中でも、人は、案外ちゃんと腹が減るし、眠くなるし、写真も撮る。それが分かったことが、この数年のいちばんの収穫だった。

切り取れる範囲は、この先も、どんどん狭くなっていく。

だが、切り取った一枚一枚は、狭くならない。

そのことに気づいたときから、千景にとって写真は、趣味ではなく、ほとんど生活の一部になった。

現像した写真の中に、数日前、学食で撮った一枚があった。常盤遍という、あの妙な学生の写真だった。

千景は、その写真を、明るい場所に持っていって、あらためて眺めた。ピントは、確かに合っている。それなのに、彼の輪郭だけが、周りから浮いて見える。色が薄く、影の落ち方がちぐはぐで、まるで別の場所で撮った写真を、後から貼り合わせたかのようだった。

千景は、これまでも、たくさんの人間を撮ってきた。ファインダーを覗くと、見えるはずのないものが、時々、見えることがあった。嘘をついている人間の顔には、嘘の輪郭がある。無理をしている人間の笑顔には、無理の皺がある。カメラは、目で見るよりも正直だった。目は、優しさや礼儀で、見たものを丸めてしまうことがあるが、レンズは、丸めない。

常盤遍という学生の写真には、これまで見たどの種類の違和感とも、違う違和感があった。嘘の輪郭でもない。無理の皺でもない。強いて言えば——何も足さず、何も引かず、あるがままに写っているはずなのに、その「あるがまま」自体が、どこか作り物めいて見える種類の違和感だった。

千景は、写真の中の彼の顔を、しばらく見つめた。

学食で話したときの彼を、千景は思い出した。何を聞いても、少し困ったように黙り込み、言葉を選びながら、それでも最後まで言い切らずに止めてしまう人だった。困っているようには見えるのに、本当に困っている人特有の、余裕のなさは感じなかった。むしろ逆だった。彼の表情には、何にも脅かされていない者だけが持つ、奇妙な静けさがあった。

それなのに。

千景は、写真の彼の目元を、指でなぞった。ここに、何かがある。何かを、ずっと我慢している人の目だ。千景は、そう直感していた。だが、彼は、我慢しているようには、少しも見えなかった。困った顔はするが、苦しんでいる顔は、一度もしていない。矛盾している、と千景は思った。何も我慢していない顔で、何かをずっと我慢している。そんな人間に、千景はこれまで、一人も出会ったことがなかった。

千景は、その写真を、ファイルの中の特別な一角に、そっとしまった。誰かに見せるための写真ではなかった。ただ、自分の手元に、置いておきたい写真だった。

暗室を出ると、指導教員の一人に呼び止められた。今週の課題——「日常の中の違和感」というテーマで撮った組写真の講評だった。教員は、千景の並べた数枚を、一枚ずつ丁寧に見ていった。

「汐見さんの写真は、いつも、狙いすぎてないのがいいね。違和感を撮ろうとして違和感を作ってる子が多い中で、あなたのは、ただそこにあったものを、そのまま拾ってる感じがする」

「そうですか」

「うん。ただ——」教員は、学食で撮った常盤遍の一枚で、手を止めた。「これは、何?」

「同じ学部の子です。狙って撮ったわけじゃないんですけど」

「これは、拾ったにしては、ちょっと出来すぎてる気がするな。合成、じゃないんだよね?」

「合成じゃないです」

教員は、しばらくその写真を見つめてから、「面白いね」とだけ言って、次の一枚に移った。それ以上、深く聞かれることはなかった。千景は、少しだけ、ほっとした。この写真については、自分でもまだ、うまく説明できることが、何もなかったからだ。

教室に戻ると、同期の宮下が、机の上に自分の写真を広げて唸っていた。千景に気づくと、手招きをする。

「千景、ちょっと見て。今週の課題、どれ出すか決められない」

机の上には、駅前で撮ったらしいスナップが十数枚、並んでいた。千景は、一枚ずつ、黙って見ていった。宮下は、その横顔を、落ち着かない様子で窺っている。

「……これ」

千景が一枚を指すと、宮下は、意外そうな声を上げた。

「それ? 自分では、いちばん地味だと思ってたんだけど」

「他のは、撮る前に、いいでしょって決めてから撮ってる。これだけ、決める前にシャッターが切れてる」

「相変わらず、容赦ないなあ」宮下は、笑いながら、その一枚を手に取った。「でも、そう言われると、そんな気がしてきた」

宮下は、写真をまとめながら、思い出したように言った。

「ね、今日、このあとご飯行かない? 課題も出したことだし」

「ごめん。今日は、屋上」

「また屋上? 何がそんなにいいの、あそこ」

「夕方の光が、いちばん長く見える場所だから」

「ふうん」宮下は、深くは聞かずに、ひらひらと手を振った。「じゃ、また明日ね」

千景は、宮下のそういうところが、ありがたかった。理由を半分しか言わなくても、残りの半分を詮索しない。付き合いの長さというのは、聞かないことの上手さでもあった。

機材室に向かう廊下で、向こうから、当の常盤遍が歩いてくるのが見えた。学食で会ったときと同じ、静かな歩き方だった。急いでいる様子もなく、かといって、のんびりしているわけでもない。ただ、その場に必要な速さで、必要な分だけ歩いている、という歩き方だった。

「常盤くん」

千景が声をかけると、遍は少し驚いたように足を止めた。

「あの時の写真、まだ持ってる?」

「持ってるけど」

「今度、もう一回撮らせて。角度、変えてみたいから」

遍は、少し困ったような顔をした。困っているというより、どう答えていいか分からない、という顔だった。

「別に、構わないけど。理由、聞いてもいい?」

「うまく言葉にできないから、撮って確かめたいの」

千景は、それだけ言った。遍は、その答えに、それ以上は突っ込んでこなかった。「分かった」とだけ言って、小さく頷いた。その頷き方にも、千景は、あの写真と同じ違和感を感じた。頷くという、ただそれだけの動作なのに、遍がそれをするときだけ、まるで動作の見本のように、綺麗に完結している。

「あの写真、消した方がいい? 気味悪かったら」

千景がそう聞くと、遍は、少し考えてから、首を横に振った。

「消さなくていい。……自分でも、もう一回、見てみたい気がするから」

「いいよ。今度、焼き増しする」

焼き増し、という言葉を、遍は初めて聞いたような顔で聞いていた。写真学科の外の人間には、案外通じない言葉だったのかもしれない。千景は、説明しなかった。説明するより、現物を渡す方が早い。

遍が立ち去ったあと、千景は、その後ろ姿をしばらく見送った。困っているのに、困り方が下手ではない人。それが、千景の中に浮かんだ、いちばん近い言い方だった。

夕方、千景は大学の屋上に上がり、沈んでいく夕日を撮った。何度も撮ってきた景色だった。同じ夕日は、二つとなかった。雲の形も、光の色も、毎回、少しずつ違う。千景がシャッターを切り続ける理由は、単純だった。今日のこの景色は、今日しか、この形では存在しない。そして、いつか自分の目に映るこの景色の範囲は、今よりも、確実に狭くなっている。

屋上には、他に誰もいなかった。風が、千景の髪を横に流した。眼下には、部活帰りの学生たちが、点々と歩いているのが見えた。その一人一人の姿を、千景はしばらく、ただ目で追った。撮らなくてもいい景色というものも、この世にはある。撮らずに、ただ見ておくだけの時間も、千景は大事にするようにしていた。

千景は、手すりに肘を置いて、空の色が変わっていくのを待った。橙、と一口に言っても、実際の空は、一色ではない。雲の縁の、焦げたような赤。その内側の、蜜柑の色。高いところに残っている、昼の水色。千景は、それらの色の名前を、ひとつずつ、声に出さずに数えた。名前を知っている色は、思い出せる。思い出せる色は、たぶん、見えなくなったあとも、消えない。そのための、小さな貯金のような数え方だった。

悲しい、とは、あまり思わなかった。悲しむには、まだ早い気がした。それに、悲しんでいる暇があるなら、その時間で、もう一枚、シャッターを切りたかった。千景にとって、写真を撮るという行為は、失うことへの抵抗ではなく、失う前に、確かにここにあったと、証明しておくための作業だった。誰かに同情されるための話ではない。千景は、自分の状態を、誰かに説明したことが、ほとんどなかった。説明したところで、相手が困った顔をするだけだと分かっていたし、千景は、誰かを困らせるために、この話をしたいわけではなかった。

屋上の隅で、風に吹かれながら、千景はもう一度、カメラの中の常盤遍の写真を思い浮かべた。

何も我慢していない顔で、何かをずっと我慢している人。

その組み合わせが、千景の中で、いつまでも、うまく像を結ばなかった。像を結ばないものほど、千景は、もう一度、ファインダー越しに覗いてみたくなる性分だった。

千景は、自分の視野が、これから先、どんな順番で欠けていくのか、知らない。医師も、正確なところは教えてくれない。ただ、視野が欠けるということと、常盤遍という人間が写真の中で欠けて見えるということが、千景の中で、なぜかうっすらと繋がって感じられた。両方とも、あるはずのものが、あるべき形で、そこにない。理由は違うのかもしれないが、千景の目には、似た種類の空白に映った。

太陽が、ビルの向こうに完全に沈んだ。空の色が、橙から紺へと、静かに変わっていく。千景は、その一瞬の変わり目だけを狙って、最後にもう一枚、シャッターを切った。

次に会ったら、もう一度、彼を撮ってみよう。千景は、暮れていく空に向かって、静かにそう決めた。