MAMAKAMI
第六話 三千円の全能
迅に誘われた日雇いバイト、初めて自分で稼いだ金で飲む一杯——巻でいちばん幸福な一日の、帰り道に待っていたもの。
講義が終わるなり、迅が机の間を縫って駆け寄ってきた。
「常盤、明日暇か」
「特に予定はないけど」
「よし、決まりだ。倉庫整理の日雇い、一緒に行こう。前に俺が電話してた案件、覚えてるか。日払いで、時給悪くないやつ」
遍は、生協前の掲示板で控えた番号のことを思い出した。あの日、隣にいた見知らぬ学生に教えられて、控えただけの番号だった。まさか迅と同じ案件だったとは、思ってもみなかった。
「一緒にやるの、初めてだね」
「だな。二人でいた方が、休憩とかも気楽だろ。それに、正直、俺一人だとちょっと心細かったんだよ、力仕事系」
迅は笑いながら、遍の肩を軽く叩いた。
翌朝、駅の改札前で落ち合うと、迅は、見たことのない静かさで立っていた。
「おはよう」
「……おう」
眠気で、声に力がなかった。声の大きい男の声が小さいと、別人のように見える。二人は、始発に近い電車に乗る前に、駅前のコンビニで昼の分を買い込んだ。遍は、棚の前で値札を順番に見比べ、いちばん安い鮭と、次に安い昆布のおにぎりを取った。値札を見比べて物を選ぶという手続きが、遍には、もうすっかり手に馴染み始めていた。迅は、菓子パンを三つと、細長い栄養補助食品のようなものを籠に放り込んでいた。
「朝から、そんなに食べるの」
「食う。力仕事の日は、朝食っとかないと、昼まで身体が持たねえんだよ。経験者は語るってやつ」
電車の中で、迅は吊り革に掴まったまま、うつらうつらしていた。窓の外は、まだ薄い水色をしていた。工場の屋根が、朝日を受けて、一列ずつ順番に光っていく。遍は、その順番を、ただ眺めていた。この時間の電車に乗っている人々は、皆、少しずつ似た顔をしていた。眠りの続きを顔に残したまま、それでも身体だけは、行くべき場所へ向かっている顔だった。
倉庫街の駅で降りて、十分ほど歩くと、目当ての倉庫に着いた。前には、同じように日雇いで集まったらしい男たちが、十数人、所在なさげに並んでいた。作業着の色も年齢もばらばらで、共通しているのは、まだ眠そうな顔だけだった。
現場監督らしき、がっしりとした体格の男が、遍と迅を含めた全員に、簡単な作業説明をした。倉庫内の在庫を、指定された棚に移動させる。重いものは二人一組で運ぶ。休憩は、午前と午後に一回ずつ。監督は、説明の締めに、「怪我だけはするな。怪我されると、俺が書く書類が増える」と言った。男たちのあいだから、低い笑いが漏れた。決まり文句らしかった。決まり文句に、決まった笑いで応える。その呼吸ごと、この現場の朝の一部であるようだった。話はそれだけで、あとは各自、指示された持ち場に散っていった。
隣の持ち場になった年配の男が、軍手をはめながら、遍に声をかけてきた。
「兄ちゃんら、学生さん?」
「そうです」
「若いのはいいな。俺なんか、この仕事だけで五年目だよ」男は、笑いながら自分の腰を叩いた。「腰、やられる前に、稼げるだけ稼いどけ」
男の口調には、疲れも滲んでいたが、それ以上に、飄々とした軽さがあった。遍は、その軽さに、妙に引き込まれた。同じ重い箱を運んでいるはずなのに、男の足取りには、無駄な力みがなかった。長く続けてきた者だけが持つ、力の抜き方があるらしかった。
男は、遍の持ち方を横目で見て、すぐに口を出してきた。
「兄ちゃん、腕で持つな。腰落として、足で持て。箱は身体に付けろ。離すと、倍重くなるぞ」
言われた通りにすると、同じ箱が、確かに少しだけ軽くなった。軽くなった分だけ、男の五年という年月が、遍の腕の中に、ほんの少し移ってきたような気がした。
「うまいうまい。兄ちゃん、筋がいいよ」
「ありがとうございます」
「素直なのもいい。素直じゃない奴から、腰をやるんだ」
遍が任されたのは、段ボール箱を運ぶ作業だった。最初の一箱を持ち上げたとき、遍は、箱の重さそのものよりも、自分の腕がそれに応えて震える感触に、驚かされた。持ち上げる、運ぶ、置く。それだけの動作なのに、繰り返すごとに、肩の付け根がじんわりと熱を持ち始めた。
「常盤、そっち持てるか」
迅が、遍より一回り大きい箱の反対側を担ぎながら、声をかけてきた。遍は頷いて、箱の端に手をかけた。二人がかりでも、決して軽い箱ではなかった。運びながら、遍は、身体がこんなにも正直に、疲労という形で不満を伝えてくることに、内心で感心していた。文句を言わない身体というものが、これまでずっと当たり前だった。今は、腕も肩も、はっきりと文句を言っていた。悪くない文句だった。
箱には、中身の名前が印字されていた。台所用品。文具。玩具。運びながら、遍は時々、その文字を目で追った。この箱の中の泡立て器は、いつか誰かの台所で使われる。この箱の中のクレヨンは、いつか誰かの子供の手で折られる。倉庫というのは、まだ誰のものでもない生活の部品が、宛先を待って眠っている場所だった。自分の運ぶ一箱一箱に、知らない誰かの明日が入っている。そう思うと、腕の疲れが、ほんの少しだけ、意味のあるものに感じられた。
昼前になる頃には、遍のシャツは汗で背中に張りついていた。喉が渇き、腹が鳴った。空腹を、ここまで具体的な音として自覚したのは、久しぶりのことだった。
休憩時間、遍と迅は、倉庫の裏手の日陰に座り込んで、朝買ったおにぎりを頬張った。周りには、他の作業員たちも、思い思いの場所で休んでいた。誰かが煙草に火をつけ、誰かが缶コーヒーを一気に飲み干していた。
「なあ、常盤。この仕事、どう思う」
「疲れる」
「だよな」迅は笑いながら、自分のおにぎりの残りを口に押し込んだ。「でも、飯、うまくないか。いつもの学食の飯より、なんか、うまい気がする」
遍は、頬張ったおにぎりの米粒を、ゆっくりと噛んだ。塩気と、海苔の香りと、少しだけ硬くなった米の粒感。特別な味ではなかった。ただ、迅の言う通り、いつもより味が濃く感じられた。理由は、たぶん、腹の減り方が違うからだった。空腹という前提が変わると、同じおにぎりが、まるで違う食べ物になる。遍は、そのことに、素直に驚いていた。
隣の持ち場の男が、缶コーヒー片手に、二人のそばに腰を下ろした。
「学生さんは、いいねえ。飯がうまそうで」
「おじさんは、食べないんですか」と迅。
「俺は朝が遅いから、昼は軽くでいい」男は、コーヒーをひと口飲んで、倉庫の建物を見上げた。「この倉庫もな、五年前は、もっと荷が多かったんだよ。景気ってのは、棚を見りゃ分かる。棚が空くと、俺らの仕事も減る」
「詳しいんですね」
「五年もいりゃ、棚の顔くらい覚えるさ」
棚の顔、という言い方を、遍は胸の中で繰り返した。毎日同じ場所で働く人間には、倉庫の棚にさえ、顔が見えるらしかった。
午後の作業は、午前よりもきつかった。腕は重く、足の裏には、慣れない靴擦れができ始めていた。それでも、時間が経つごとに、遍の中には、奇妙な充実感が積み上がっていった。運んだ箱の数だけ、倉庫の棚は整然と埋まっていく。目に見える変化が、自分の手によって起きている。その手応えは、遍がこれまで知っていたどんな種類の満足とも違っていた。
一度、遍が運んでいた箱の底が抜けて、中身の雑貨が、倉庫の床に派手にぶちまけられたことがあった。周りの作業員たちから、どっと笑いが起きた。遍は、慌てて散らばった中身を拾い集めながら、自分でも、思わず笑ってしまった。失敗したことを、こんなふうに笑って済ませられる空気が、遍には新鮮だった。誰も、遍を責めなかった。現場監督でさえ、「箱、古かったんだろ、気にすんな」とだけ言って、次の作業に戻っていった。
拾い集めた雑貨を棚に並べ直しながら、遍は、隣の年配の男に礼を言った。手伝ってくれたのだ。
「これくらい、いいって。持ちつ持たれつだよ」
男は、そう言って、また笑った。遍は、その言葉を、しばらく胸の中で繰り返した。持ちつ持たれつ。誰かに借りを作り、誰かに借りを返す。そういう釣り合いの中で生きるということが、遍には、これまで縁のないものだった。
午後の後半、遍と迅は、棚に並べた在庫の数を数えて、伝票の数字と突き合わせる作業に回された。遍が声に出して数え、迅が伝票を確かめる。
「こっちの棚、四十八」
「……合ってる。次」
「三十六」
「合ってる。お前、数えんの速えな」
数える、というだけの作業が、遍には、思いのほか性に合っていた。ひとつ、またひとつと、目の前の物を確かめては、数字を積んでいく。数え終わるまで、合計は分からない。分からないまま積んでいって、最後に伝票の数字とぴったり合ったときの、小さな手応え。倉庫の高い窓から差し込む西日が、棚の埃を、細い帯のように光らせていた。汗の引き始めた背中に、その光が斜めに当たっていた。
夕方、作業がすべて終わると、現場監督が、一人ずつ名前を呼んで、封筒を手渡していった。男たちは、呼ばれる順番を、思い思いの姿勢で待っていた。封筒を受け取った者から、ひとりずつ、軽くなった足取りで門の方へ歩いていく。
「常盤くん」
名前を呼ばれ、遍は封筒を受け取った。中には、皺の少ない千円札が数枚と、小銭が入っていた。開いて数える前から、金額はおおよそ分かっていた。だが、それを実際に指で数えるという行為には、分かっていることとは別の重みがあった。
遍は、その場に立ったまま、封筒の中身を、もう一度、数え直した。今日一日、腕を震わせ、汗をかき、足を痛めた、その対価として、この金額が、今、自分の手の中にある。誰かが最初から用意していたのではない。誰かが辻褄を合わせたのでもない。ただ、働いた分だけ、そこにある。当たり前のことのはずなのに、遍には、それが、これまで経験したどんな出来事よりも、確かなものに感じられた。
これまで遍の手に渡ってきたものは、どれも、欲しいと思う前から、すでに用意されていた。この封筒の中身だけは、違った。今朝、電車に乗った時点では、まだどこにも存在していなかった金額だった。それが、遍自身の腕と汗によって、今日という一日のうちに、新しく生まれた。生まれた、という言葉が、大げさに思えないくらい、遍にとっては大きな出来事だった。
隣の年配の男が、自分の封筒を無造作にポケットにねじ込みながら、遍に片手を挙げた。
「兄ちゃん、お疲れさん。また現場で会うかもな」
「お疲れさまでした」
男は、軽い足取りで、駅とは反対の方向へ歩いていった。遍は、その後ろ姿が見えなくなるまで、見送った。
「常盤、めっちゃ嬉しそうな顔してるじゃん」
迅が、隣で笑いながら言った。
「そう見える?」
「見える見える。まあ、分かるけどな、その気持ち」
二人は、倉庫街から駅までの道を、疲れた足取りで歩いた。身体は重かったが、足取りそのものは、なぜか軽かった。
「打ち上げ、行くか」
「打ち上げ」
「稼いだ金で、一杯やるんだよ。しょぼい店でいいから」
迅に連れられて、遍は駅前の裏路地にある、小さな立ち飲み屋に入った。カウンターだけの、狭い店だった。壁に貼られた品書きは、どれも安い値段ばかりだった。焼き鳥、モツ煮込み、冷奴。迅は慣れた様子で、生ビールを二つ頼んだ。
店主は、無口な男だった。注文を受けると、短く復唱だけして、あとは黙って手を動かす。モツ煮込みの鍋は、カウンターの奥で、一晩中と言われても信じるくらい、静かに湯気を立て続けていた。
「常盤、酒、飲めるんだよな」
「たぶん」
「たぶんって、お前、自分の酒量も分かってないのかよ」
迅は笑いながら、運ばれてきたジョッキを、遍の前に置いた。
「じゃあ、乾杯」
ジョッキを軽く合わせ、遍はビールを一口飲んだ。
冷たさが喉を通り、苦味が舌の上に広がった。その一口が、遍の中に、これまで感じたことのない種類の満足を運んできた。飲み物の味そのものは、特別なものではなかったのかもしれない。だが、今日一日、汗をかいて働いた身体に流し込む一杯には、味以上の何かがあった。自分で稼いだ金で、自分の意志で選んで、自分の渇きを満たすために飲む一杯。そのすべてが重なって、遍の中で、静かな熱を持った。
「うまい」
遍は、思わずそう呟いた。迅の口の端が、いつもより大きく上がった。
「だろ。働いた後の酒は、格別なんだよ」
「不思議なんだけど」遍は、ジョッキの中の泡を見ながら言った。「同じ銘柄なら、どこで飲んでも同じ味のはずなのに」
「はずなのに、違うんだよなあ」迅は、我が意を得たりという顔で頷いた。「ビールってのは、たぶん、半分は液体で、半分はその日の中身でできてんだよ」
その日の中身。迅は時々、こういうことを、何の力みもなく言う。遍は、ジョッキを傾けながら、今日という日の中身を思った。箱の重さ。靴擦れ。ぶちまけた雑貨。数え上げた在庫。そのぜんぶが、この一杯に溶けているのだとしたら、確かに、他のどの一杯とも違う味のはずだった。
迅は、焼き鳥とモツ煮込みを次々と頼み、遍の分も気前よく取り分けた。串から外した焼き鳥のタレが、遍の指先にほんの少しついた。舐め取ると、甘辛い味が舌に広がった。特別な料理ではなかった。それでも、今日ばかりは、その甘辛さが、いつもよりずっと濃く感じられた。
冷奴には、鰹節がひとつまみ載っていた。箸で崩すと、豆腐の白い断面が、店の裸電球の光を鈍く受けた。遍は、ふと、誰かの作る味噌汁の豆腐を思い出しかけて、その先が続かないことに気づいた。思い出せそうで、思い出せない。酔いのせいだろう、と遍は思うことにした。
二人は、今日の作業の話、現場監督の口癖の真似、遍が箱を落として周りが大笑いした一幕、そういう他愛のない話で盛り上がった。迅の話は、いつも通り脱線しながらも、絶えることなく続いた。遍は、その話を聞きながら、何度も笑った。声を出して笑うということが、こんなにも自然にできることに、遍自身、少し驚いていた。
カウンターの端では、他の客たちも、それぞれのグループで盛り上がっていた。作業着姿の男たちが、缶ビールを片手に、今日の現場の愚痴をこぼしている。隣の常連らしき老人は、ちびりちびりと日本酒を舐めながら、店主と世間話をしていた。狭い店の中に、いくつもの一日の終わりが、重なり合うように詰め込まれていた。遍は、その重なりの中に、自分もまた一つ紛れ込んでいることに、不思議な安心を覚えた。
その老人が、ふと、二人の方に顔を向けた。
「兄さんたち、見ない顔だね。学生さんかい」
「そうっす。今日、初めて日雇い行ってきて、その打ち上げっす」と迅。
「ほう、初日か」老人は、目尻の皺を深くした。「どうだった、初めての現場は」
「めちゃくちゃ疲れました」
「そりゃ何よりだ」老人は、猪口を軽く持ち上げた。「疲れた日の酒が、いちばん減りが早い。覚えときな」
老人は、それだけ言うと、また店主との世間話に戻っていった。長居はしないが、通りすがりに一言だけ置いていく。この店の客同士の距離は、そのくらいの長さでできているらしかった。遍は、自分のジョッキの減り方を見た。確かに、早かった。
「なあ、常盤」迅が、ジョッキ二杯目を空けたところで、ふと真面目な声を出した。「今日みたいな日、たまにでいいから、また付き合ってくれよ」
「うん」
「なんか、お前と一緒だと、しんどい仕事も、しんどいだけじゃ終わらない気がするんだよな。なんでだろうな」
遍は、その理由に、答えを持たなかった。ただ、迅の言葉が、胸の奥に、静かに沈んでいくのを感じた。
「そういえば」遍は、ふと思い出して言った。「写真学科の子に、もう一回撮らせてって言われてる」
「ああ、あの写真だけ変になるってやつか」迅は、モツ煮込みを箸でつつきながら、興味なさそうに頷いた。「撮られてやれば。減るもんじゃないだろ」
「そうだね」
遍は、それだけ答えて、また箸を動かした。千景の言葉のことを、今すぐ考えたいわけではなかった。今日という日を、まだもう少し、そのままにしておきたかった。
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。二人とも、頬がほんのり赤らんでいた。
「今日は、いい日だったな」
迅が、夜道を歩きながら、しみじみと言った。
「うん」
「常盤と組んでよかったわ。一人だったら、絶対途中で心折れてた」
遍は、その言葉に、何と返せばいいか分からなかった。ただ、胸の奥が、今日一日でいちばん、あたたかくなっているのを感じた。
夜の商店街は、半分ほどの店がシャッターを下ろしていた。開いている店の灯りと、閉まった店の暗がりが、交互に二人の顔を照らした。迅は、機嫌よく、覚えたての現場監督の口癖をもう一度真似て、自分で笑っていた。
大通りに差しかかったところで、それは起きた。
信号を渡ろうとした遍の目の前に、脇道から猛スピードで一台の車が飛び出してきた。運転手が、スマートフォンに気を取られていたのか、ブレーキを踏む気配がなかった。遍の身体は、反応するより先に、ただその場に立ち尽くしていた。
次の瞬間、突風が吹いた。近くの店先に立てかけてあった立て看板が、その風にあおられて倒れ、遍と車のあいだに、ちょうど割り込むように滑り込んだ。運転手は看板に気づいて、慌ててハンドルを切った。車は、遍のすぐ横をかすめるようにして、急停車した。
一瞬の出来事だった。遍は、しばらくその場から動けなかった。
「おい、常盤、大丈夫か」
迅が、駆け寄ってきて、遍の肩を掴んだ。
「大丈夫」
「大丈夫じゃねえよ、今の見たか。看板、勝手に倒れてお前のこと庇ったみたいになってたぞ」
運転手が、車から降りて、何度も頭を下げながら謝ってきた。遍は「大丈夫です」とだけ答え、看板の持ち主らしき店員が、慌てて駆けつけて看板を起こすのを、ぼんやりと眺めていた。
迅は、興奮した様子で、遍の背中を何度も叩いた。
「お前、ほんと悪運強えな。あんなタイミングで看板が倒れるとか、普通ないだろ」
「そう、かもね」
「今日は本当に、お前の日だな。仕事もうまくいって、酒もうまくて、事故にも遭わないで」
迅は、興奮冷めやらぬ様子で、それからも同じ話を繰り返した。遍は、相槌を打ちながら、心のどこかで、迅とは違う温度で、今起きたことを受け止めていた。
分かれ道まで、迅は看板の話をし続けた。話すたびに、看板の倒れ方は少しずつ大きくなり、風は強くなり、車は速くなった。話が育っていくのを、遍は隣で聞いていた。迅の中では、今夜の出来事は、もう「いい話」の棚に仕舞われ始めている。遍の中では、まだ、どの棚にも収まっていなかった。
アパートに戻り、迅と別れたあと、遍は玄関先で、しばらく空を見上げていた。
星は、いくつか見えたが、街の明かりのせいで、ほとんどは霞んでいた。遍は、その霞んだ空を、長いあいだ、黙って見つめていた。
看板が倒れたのは、偶然だった。風が吹いたのも、偶然だった。運転手がスマートフォンを見ていたのも、そもそもの偶然だった。それぞれの偶然を、一つ一つ取り出せば、どれも、この世界にいくらでも転がっている、ありふれた偶然に過ぎなかった。
だが、それが、ちょうどこの瞬間に、ちょうどこの順番で、ちょうど遍を守る形で重なった。
今日一日、遍は、これまで知らなかった多くのものを知った。働くことの疲れ。稼いだ金の重み。誰かと笑い合う時間の心地よさ。そのどれもが、本物の手触りを持っていた。だからこそ、今この瞬間の違和感が、余計に際立って感じられた。
幸福の絶頂のような一日の、いちばん最後に置かれた、この小さな棘。
遍は、霞んだ星を見上げたまま、長いこと、そこに立っていた。
答えは出なかった。
腕は重く、足は痛み、喉はビールの余韻でわずかに渇いていた。財布の中には、今日稼いだ金の残りが入っていた。その重みだけは、今日という一日が本物だったことを、静かに教えてくれていた。
看板の倒れた角度。風の吹いた向き。運転手の、視線の逸らし方。そのすべてが、あまりにも都合よく、遍の無事という一点に向かって、収束していた。
それでも、遍は、玄関先を離れがたかった。
部屋に戻り、遍は電気もつけずに、しばらく玄関にしゃがみ込んでいた。
今日という日を、まだ手放したくなかった。