MAMAKAMI

第十一話 あなたの作品

全てを明かした遍は、千景の目を治せると告げる。だが、返ってきたのは拒絶でも歓喜でもなく——「あなたが治した目で見る世界は、あなたの作品でしょう」。

赤いランプの下で、汐見千景は、バットの中の印画紙を見つめていた。

定着液の匂い。トングの先が、バットの縁に触れる小さな音。暗室は、時間を、手と耳で数える場所だった。像は、いつも、暗い方から先に浮かんでくる。石段の影。木々の輪郭。段の縁を斜めに切り取っていく、夕方の光。神社で撮った、あの日の一枚だった。

一年に十数分しかないという光は、確かに、そこに写っていた。露出も、構図も、狙った通りだった。転びかけた日の写真としては、上出来すぎるくらいだった。

千景は、乾かした写真を作業台に並べて、しばらく手を止めた。

最後の一枚の隅に、常盤遍が写り込んでいた。

千景は、その一枚を、明るい場所に持っていって、あらためて眺めた。ピントは合っている。構図も、悪くない。それなのに、遍の輪郭だけが、周りの石段や木々から、わずかに浮いて見えた。前に学食で撮った写真で見たのと、同じ種類の違和感だった。ただ、あのときよりも、浮き方が、はっきりしていた。まるで、その一角だけ、別の日に、別の光で焼き付けたかのようだった。

千景は、ファイルの中から、これまでに撮った遍の写真を、順番に取り出して並べてみた。学食の一枚。廊下の一枚。山の展望台の一枚。そして、今日の一枚。並べてみると、分かることがあった。違和感は、どの一枚にもあった。だが、神社の日を境に、その濃さが、一段、変わっていた。写真は、嘘をつかない。変わったのは、印画紙の側ではなかった。

あの日のことを、千景は、何度も頭の中で辿り直していた。

ファインダーを覗いたまま、半歩、体を石段の外側に寄せた。次の瞬間、視界の欠けた場所に、足元がすっぽりと消えた。そこまでは、いつものことだった。千景の視界には、そういう落とし穴が、もう何年も前から、いくつも開いている。落ちる、と思った。段の高さも、下の地面の硬さも、考えるより先に、体の方が分かっていた。

だが、落ちなかった。

足首に、何かが触れた。体の傾きが、わずかに逸れた。同時に、肩を掴まれた。それだけのことだった。それだけのことにしては、体の逸れ方が、あまりにも綺麗に収まっていた。まるで、誰かが、あらかじめ転ぶ先を測っておいたかのように。

数日後、千景は、一人で、あの石段を見に行った。中腹の、あの段の脇に、古い木の根が、地面から少しだけ顔を出していた。足首の触れた場所に、ちょうど合う高さだった。根は、何十年も前からそこにあったような顔をして、苔まで載せていた。千景は、その根を、一枚だけ撮って、帰った。撮りながら、自分が何を確かめたいのか、自分でも、よく分からなかった。

その一枚も、同じフィルムの終わりの方で、順番に像を結んだ。木の根は、何の変哲もない、ただの根として写っていた。浮いてもいなければ、嘘めいてもいない。写真の中で嘘みたいに見えるのは、この世で、あの人だけらしかった。

暗室にいる時間だけは、いつもなら、目のことを考えずに済んだ。目の前の作業に、意識のすべてを注ぎ込むことができた。今日は、駄目だった。像を待つ数十秒のあいだにも、写真の中の遍の顔が、頭のどこかに貼りついたまま、剥がれなかった。

変わったのは、写真だけではなかった。あの日以来、遍は、どこか上の空でいることが増えた。危なかったね、と笑い合うはずの空気は、あの夕方、どこか湿ったまま、乾かずに残った。講義室で見かける横顔も、廊下ですれ違うときの会釈も、形は以前のままだった。ただ、形の内側で、何かが一人で抱え込まれている。ファインダー越しなら、一目で分かる種類の変化だった。

一度、学食で見かけたとき、遍は、箸を止めて、窓の外を長いこと見ていた。視線の先には、何もなかった。少なくとも、千景の目に見えるものは、何も。千景は、声をかけずに、席を立った。

千景自身の視野も、ここ数週間で、また少しだけ、欠けが広がっていた。定期検査の日、医師はいつも通り、前回との違いを言葉少なに告げた。ほとんど同じです、ただ——。ほとんど、というところに、すべてが入っている。千景は、その言い方に、もう慣れていた。帰り道、手帳を開いて、撮っておきたいものの名前を、二つ書き足した。頁の残りは、まだ厚い。厚いうちに、と思うだけで、焦りはしなかった。焦って撮った写真が、ろくなものにならないことは、もう知っていた。

ただ、手帳を閉じる前に、千景は、いちばん新しい頁を、しばらく見ていた。祖母の家の、廊下の突き当たりの光。雨上がりの、校舎の渡り廊下。その下に、名前がひとつ、書いてあった。景色の名前ばかり並んだ頁の中で、そこだけ、人の名前だった。

常盤遍、とだけ、書いてあった。

暗室を出ると、スマートフォンに、遍からの短い連絡が届いていた。

「今晩、少し話せる。河原で」

用件は書かれていなかった。だが、その素っ気なさの中に、いつもとは違う重さがある気がして、千景は、断らなかった。鞄にカメラを入れたのは、ほとんど習慣だった。撮るつもりがあったわけではない。ただ、カメラの入っていない鞄は、千景には、少し軽すぎた。

夕方の町を、千景は、駅から川へ向かって歩いた。西日が、商店街のアーケードの切れ目から差し込んで、長い影を路面に倒している。八百屋の店先。ポスターの剥がれかけた電柱。信号待ちの自転車の、車輪の照り。いつもなら、二、三度は足を止めて構える道だった。今日は、構えなかった。目だけで撮って、通り過ぎた。

堤防に上がると、視界がひらけた。空には、まだ雲がなかった。川面が、夕方の光を細かく砕いて返している。土手の草が、一定のリズムで、風に揺れていた。川下の方で、子供が二人、石を投げて水切りをして遊んでいたが、千景が近づく頃には、自転車に乗って帰っていった。

遍は、既に、堤防の階段に座っていた。

「呼び出して、ごめん」
「別に」

千景は、遍の隣に腰を下ろした。いつもなら、カメラを構えたくなる光だった。だが今日は、鞄からカメラを出す気になれなかった。

しばらく、どちらも口を開かなかった。犬を連れた人が、遠くの土手を一人、通り過ぎていった。鉄橋を、電車が渡っていく音が、川上の方から届いて、消えた。川の水音だけが、変わらず、二人のあいだを流れ続けていた。

千景から、その沈黙を破った。

「言いたいこと、あるんでしょう」
「うん」

遍は、川を見つめたまま、しばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。

「俺は、普通の人間じゃない」

千景は、何も言わなかった。ただ、遍の横顔を見つめた。ファインダー越しに、これまで何度も見てきた輪郭だった。今夜のその輪郭は、いつもよりも、薄いように見えた。

「生まれつき、全能なんだ。世界に対して、なんでもできる。物を作ることも、消すことも、天気を変えることも」

荒唐無稽な話だった。だが、千景は、笑わなかった。作業台に並べた、あの写真たちのことを、思い出していたからだった。写真は、嘘をつかない。そして、あの写真たちは、ずっと前から、同じことを訴え続けていた。ここに写っているものは、ここにあるものと、少し違う、と。

「神社の階段のときも」
「うん」
「あれ、あなたが」
「そう」

「石段の脇に、木の根があった」千景は、続けた。「あとで見に行ったら、苔まで載せて、何十年も前からそこにあるような顔をしてた」

「……あの根は、あの日まで、なかった」

千景は、小さく息を吐いた。責めるのとも、納得するのとも、少し違う吐き方だった。それ以上は、詰め寄らなかった。ただ、遍の横顔を、もう一度、じっと見つめた。嘘をついている顔ではなかった。むしろ逆だった。長いあいだ担いできたものを、やっと下ろした人間の顔だった。

「証拠、見せてもらえる」
「見せる」

遍は、頷いた。それから、少しだけ迷うように、言い足した。

「濡れるけど、いい」
「いいよ」

遍は、空を見上げ、しばらく何かを見定めるように目を細めた。

次の瞬間、千景の頭上だけに、雨が降り始めた。

川原全体は、乾いたままだった。堤防も、対岸の草むらも、風にそよぐだけで、乾いていた。隣に座る遍の肩にも、一粒も落ちていなかった。だが、千景の周り、直径にして二メートルほどの範囲にだけ、細かい雨が、静かに降り注いでいた。

千景は、まず、カメラの入った鞄を、雨の外へ押し出した。ほとんど反射だった。それから、掌を差し出した。冷たい水滴が、確かに掌を打った。本物の雨だった。頬に、髪に、肩に、雨は、確かな重みを持って降り続けた。足元の乾いた地面に、濃い色の円が、ゆっくりと描かれていく。円の内側からは、乾いた土が雨を吸い込む匂いが立ちのぼり、円の外側には、その匂いすらなかった。

雨の音も、千景の周りにしか、なかった。自分の肩を打つ音。髪を伝う音。地面の円を叩く音。世界のほんの一部分だけが降られていて、残りのすべてが、素知らぬ顔で乾いている。まるで、この二メートルの円の外側だけ、世界がもう一枚、余分な膜を纏っているかのようだった。

いつか山で、二人でずぶ濡れになった日のことを、千景は思い出した。あのときの雨は、逃げ場のない、ただの偶然だった。濡れたくて濡れる雨はない。そう言って、並んで降られた。今、目の前で降っている雨は、逃げ場がないどころか、逃げ場そのものが、最初から用意されていない雨だった。

撮りたい、と一瞬だけ思った。同時に、これは写らない、とも思った。印画紙の上に残るのは、濡れた地面の円だけだ。降っている雨と、降っていない世界との境目は、焼き上がれば、ただの通り雨に均されてしまう。目の前で起きていることの異様さは、たぶん、この目で見ている今しか、ここにない。

そして、遍は、降られていなかった。

手を伸ばせば届く距離で、遍は、雨の外に座っていた。千景は、濡れながら、その乾いた肩を見た。この人は、ずっと、こちら側にいたのだ。降られる側ではなく、降られない側に。それがどういう場所なのか、千景には、まだうまく想像がつかなかった。ただ、想像のつかないまま、その乾き方が、ひどく、一人きりのものに見えた。

「これで、信じてもらえる」
「うん」

遍が、指を軽く動かすと、雨は、そこで止まった。降り始めたときと、同じ唐突さだった。千景の髪から、水滴が一粒、頬を伝って落ちた。足元には、濃い色の円が、輪郭を保ったまま残っていた。乾けば、消える。それだけが、今しがた起きたことの、証拠として残っていた。

千景は、濡れた前髪をかき上げながら、遍を見た。

「本当に、なんでもできるの」
「なんでも」

「じゃあ、私の目も」

遍は、その言葉に、静かに頷いた。

「治せる。今すぐに」

千景は、その言葉を、しばらく黙って受け止めた。川の音だけが、二人のあいだを流れていった。

遍は、続けた。ぽつりぽつりと、順を追うように。

これまで、どんな時間を生きてきたか。七百年という長さが、どういう手触りのものだったか。欲しいと思う前に、すべてが手に入ってしまう毎日のこと。三十日前、自分自身に封印をかけ、記憶と力を捨てて、まっさらな青年として生き直そうとしたこと。その封印には、もう一つ、目を逸らして書いた条件があったこと。大切な人の危機——それが起きた瞬間、封印は解ける、という条件。

千景の落ちかけたあの日、その条件が満たされたこと。

話しながら、遍は、自分の声が、夜気の中で少しずつ軽くなっていくのを感じていた。七百年のあいだ、誰にも話したことのない話だった。話す相手が、いなかったのではない。話しても、意味のある形で受け取ってくれる相手を、遍は、想像したことすらなかった。

千景は、話の途中、一度も口を挟まなかった。ただ、川面を見つめたまま、静かに聞いていた。話が終わりに近づくにつれ、千景の横顔から、表情が一枚ずつ、剥がれ落ちていくのが、遍にも分かった。驚きでも、恐れでもなかった。ただ、これまで見てきた遍という人間の輪郭が、頭の中で、少しずつ組み直されていく——その作業の顔だった。

「つまり」千景は、遍の話を、静かに引き取った。「あの実験は、私みたいな誰かを、あなたが作れるかどうかの、試験だったってこと」

「たぶん、そう」

「私に会ったのも、私を好きになったのも、全部、あなたが自分で仕掛けた実験の、結果だったってこと」

遍は、すぐには答えなかった。しばらくしてから、絞り出すように言った。

「分からない。本物の気持ちだったと、俺は思ってる。だけど、その気持ちが芽生えた場所そのものが、俺の設計した実験の中だったのも、本当だ。本物であることと、仕組まれていたことが、両立するのかどうか、俺にもまだ、答えが出せない」

千景は、その答えを、しばらく黙って聞いていた。怒っている様子はなかった。ただ、いつもの、何かをじっと見定めるような目で、遍を見ていた。

千景が、この先、どう答えるか。遍には、その答えを、今すぐ知る術があった。千景の心の中を覗きさえすれば、迷いも、結論も、言葉になる前の形のまま、すべて分かる。だが、遍は、それをしなかった。人の心を読むことは、遍が自分自身に、ずっと昔から禁じてきたことだった。読んでしまえば、千景の言葉は、もう千景の言葉ではなくなる。遍が遍に聞かせる、独り言になってしまう。

だから、遍は、待った。

対岸の街灯が、あと何秒で灯るか、遍は知っていた。鉄橋を渡る次の電車が、何分後に来るかも、土手の犬が、今夜どの家の前で足を止めるかも、知っていた。世界のすべてが、灯りのついた部屋のように、隅々まで見えていた。その中で、隣に座る一人の心だけが、暗いままだった。

遍は、その暗さから、目を逸らさなかった。

順番を待つ、ということを、遍は、生まれて初めて、していた。

「あなたは、それでも、私の目を治したいの」

「治せる。今なら、この瞬間に」遍は、繰り返した。「視野を欠けさせているものを、根こそぎ消せる。もう一度、欠けのない世界を、見せられる」

千景は、しばらく、何も言わなかった。川面に目を落とし、対岸の街灯が一つ、二つと灯り始めるのを、黙って見ていた。街灯の灯る順番も、遍の知っている通りだった。千景の沈黙だけが、どの知識の中にもなかった。

「治ったら」千景は、ようやく口を開いた。「私は、何を撮るんだろう」

「見えるものを、これまで通り」

「これまで通りじゃない」千景は、首を振った。「今、私が撮ってるものは、欠けていく目で撮ってるから、こういう撮り方になってる。何を今のうちに残しておくか、いつも選んでる。フィルムの残りを数えるみたいに、目の残りを数えながら、一枚ずつ選んでる。治ったら、その選び方が、なくなる」

遍は、何も言わなかった。千景の言葉を、最後まで聞くつもりだった。

「選ばなくてよくなった目で撮る写真も、たぶん、それはそれで、悪くないんだと思う」千景は、続けた。「でも、それは、今の私が撮る写真とは、別のものになる。今の私が、これまで積み重ねてきたものが、そこで一回、切れる」

千景は、そこで、遍の方を向いた。

「あなたが治した目で見る世界は、あなたの作品でしょう」

遍は、息を止めた。

「私は、私の目で撮る。欠けていくなら、欠けていく世界を、最後まで、この目で見ていたい」

千景の声は、静かだった。悲愴なところは、少しもなかった。ただ、これまでの人生で、何度も自分に言い聞かせてきた言葉のように、迷いなく発せられた。

「私の目は、私のものだから。あなたに直された目で見た景色は、たぶん、私の景色じゃなくなる。それだけは、嫌」

遍は、何も言えなかった。

七百年、遍は、どんな問いにも、答えを持っていた。どんな願いも、口にされる前に叶えてきた。断られたことが、なかった。遍の差し出すものを断れる者は、この世界のどこにも、いなかった。

目の前の一人が、今、初めて、それを断った。

返す言葉は、どこにもなかった。

「私を、拒んでるわけじゃない」千景は、続けた。「あなたのことは、今日聞いた話を全部含めても、嫌いにはならない。ただ、あなたの力だけは、いらない」

遍は、その言葉を、何度も胸の中で繰り返した。拒まれてはいない。断られたのは、力だけだった。だが、その二つを、遍はこれまで、ずっと同じものだと思って生きてきた。誰かに何かを差し出すことと、自分自身を差し出すことが、遍の中では、ほとんど区別のつかないものだった。それが、今、初めて、はっきりと切り分けられた。

全能である自分と、常盤遍という一人の人間であることは、必ずしも同じではない。千景は、そのことを、遍自身よりも先に、見抜いていた。

「怖くないのか」遍は、ようやく、それだけを尋ねた。「この先、見えなくなっていくことが」

「怖いよ」千景は、あっさりと頷いた。「でも、怖いのと、それを他人に肩代わりしてもらうのとは、別の話だから」

千景は、そこで、少しだけ笑った。自嘲でも、強がりでもない、いつもの、静かな笑い方だった。

「それに、欠けていく目で見た景色にしか、写せないものが、たぶんある。今の私にしか撮れない写真が、まだ残ってる気がする。それを、途中で放り出すのは、私が、私にできない」

川風が、二人のあいだを通り抜けた。対岸の街灯は、いつのまにか、灯り終えていた。千景は、濡れた髪を耳にかけ、それから、遍の顔を、まっすぐに見た。

長いあいだ、そうしていた。写真を撮るときの目だった。構図を決める前の、ただ被写体を見ている時間の、あの目だった。

「かわいそうに」

その一言が、遍の中に、これまでのどんな言葉よりも深く、突き刺さった。

七百年のあいだ、遍は、崇められたことも、恐れられたことも、利用されようとしたことも、数え切れないほどあった。願われたことも、乞われたことも、恨まれたことさえあった。だが、憐れまれたことは、一度もなかった。全能の存在を、可哀想だと言った人間は、遍の記憶する限り、千景が初めてだった。

崇める言葉には、いつも、遍から何かを引き出そうとする気配があった。恐れる言葉には、遍から逃れようとする気配があった。だが、千景の「かわいそうに」には、そのどちらもなかった。ただ、まっすぐに、遍という存在そのものを見て、そう思った、というだけの言葉だった。雨の降らない側に一人で座っている者へ、雨に濡れた側から、静かに手渡された言葉だった。

千景は、その言葉に、それ以上の説明をつけなかった。ただ、遍の隣に座ったまま、暮れていく川面を、いつもと同じ目で見つめ続けた。何かを気遣うでもなく、慰めるでもない。ただ、隣に座り続ける、それだけのことを、千景は選んでいた。

遍は、その隣で、しばらく、動けなかった。全能をもってしても、次に自分が何をすべきか、遍には、分からなかった。

三十日前、遍は、この分からなさを、久しぶりの懐かしさとして、抱きしめて眠りについた。今、目の前にあるこの分からなさは、あのときのものとは、まるで違う手触りをしていた。抱きしめられるような軽さは、どこにもなかった。ただ、重く、静かに、遍の胸の底に沈んでいくだけだった。

鉄橋を、電車が渡っていった。遍の知っていた通りの時刻だった。音が、川面の上を滑って、遠ざかり、消えた。そのあいだも、隣にいる千景が何を考えているのかだけは、遍には、分からないままだった。

空には、まだ、星は出ていなかった。夕焼けの最後の赤が、川面の上を、ゆっくりと滑り落ちていくところだった。

千景は、ふいに、鞄からカメラを取り出した。

「撮っていい」
「何を」
「今の、あなたの顔」

遍は、何も答えなかった。ただ、黙って、レンズの方を向いた。

ファインダーの向こうで、千景が、わずかに構図を直した。フィルムを巻き上げる、かちり、という音がした。

シャッターが、一度だけ、切られた。

乾いた音が、川原に、静かに響いた。

遍には、その一枚が、どう焼き上がるかまで、もう分かっていた。露出の按配も、粒子の粗さも、印画紙の上に浮かび上がってくる、自分の顔も。

ただ、ファインダーの向こうで、千景がその顔に何を見たのかだけは、分からなかった。

読まなければ、最後まで、分からないままだった。

それでいい、と遍は思った。

川の音が、二人のあいだを、変わらずに流れ続けていた。