MAMAKAMI

第十二話 祈り方

言葉を最後まで言えば、全能はそれを叶えてしまう。遍が見つけた、たった一つの祈り方——「どうか——」で止めて、あとは黙って隣にいること。

河原での夜から、何日かが過ぎた。

遍は講義に出て、迅と軽口を叩き、学食で飯を食った。日々の形は、何も変わっていなかった。変わったのは、その形の内側を流れているものだけだった。

世界は、また先回りを始めていた。朝、遍が目を覚ます頃には雨は上がりかけ、家を出れば、一歩先だけ道が乾いていく。満員のバスに乗れば、目の前の吊り革だけが、すっと空く。三十日ぶりに戻ってきた、あの丁寧すぎる世界だった。封印のあいだ行儀よくしていたぶんを取り返すかのように、世界は健気に気を利かせ続けた。世界の癖は、世界のものだ。遍にできるのは、気を利かせられたあとで、乗らないことだけだった。譲られた吊り革には掴まらず、次の駅まで、揺れる床に足の裏で耐えた。三十日のあいだに覚えた、人並みの踏ん張り方だった。

大学の生協で、遍は透明なビニール傘を一本買った。

開く機会が来ないことは、買う前から分かっていた。雨は、遍の一歩先で止むからだ。それでも、雨の匂いのする朝には、傘を持って出ることにした。降られるかもしれない、という顔をして歩くこと。傘の柄の冷たさが手に馴染む頃には、空はもう晴れている。分かっていて、遍は傘を持った。鞄の横で乾いたまま揺れるビニールの音が、遍には、悪くなかった。

学食では、列に並んだ。

並べば、目の前がすっと空く。誰かが急に思い立って列を離れ、遍のための隙間が、先回りして開く。遍はその隙間に入らず、いちばん後ろへ回った。後ろへ回っても、列はまた、遍の前で解けていく。きりのない追いかけっこだった。それでも遍は、毎回律儀に最後尾へ立った。待つという上等な時間は、もう二度と遍のものにはならない。ただ、列の最後に立つことだけは、まだできた。

迅は、相変わらずだった。単位のこと、恋のこと、パチンコのこと。一喜一憂の絶えない毎日を、迅はこれまでと同じ熱量で生きていた。

「常盤、聞けよ。また負けた。今度こそいけると思ったのに」
「そう」
「お前、他人事すぎるだろ。もっと悔しがれよ」

遍は、曖昧に笑い返した。迅は特に気にする様子もなく、また別の話題に移っていった。単位のこと、先週見た映画のこと、来月のバイトのシフトのこと。話はいつまでも尽きなかった。

迅が次に何を言うか、遍にはもう、口を開く前から分かっている。オチも、脱線の行き先も、脱線から戻ってこないことも。それでも遍は、迅の話を最後まで聞いた。分かっているのは言葉の中身だけで、迅の声の張り、笑うときに一瞬息を吸い込む癖、机を叩く掌の音の大きさは、その場で聞かなければ、どこにも書かれていないからだ。

遍は、その隣で、迅の未来の断片を、望まなくてもいくつか知ってしまっていた。留年すること。数年後、望まなかった形で一度だけ大きく躓くこと。それでも、笑っていること。

知ってしまった未来を、遍は誰にも話さなかった。話す資格が、自分にあるとは思えなかった。ただ、これまでよりも少しだけ、迅の軽口に丁寧に相槌を打つようになった。迅は、その変化にはまるで気づいていない様子だった。それでいい、と遍は思った。

学食の帰り、迅は廊下の自動販売機で缶コーヒーを買った。当たりつきの販売機だった。迅がこの機械で当たりを引いたことは、一度もない。今日も外れることを、遍は、迅が小銭を入れる前から知っていた。知っていて、ボタンが押されてから結果の出るまでの一秒を、迅と並んで待った。外れた。迅は舌打ちをして、それから笑った。

「見てろよ。卒業までには当ててやるからな」

当ててやることは、できた。指一本、動かす必要すらなかった。遍は、しなかった。代わりに、外れたときの迅の舌打ちが、思ったよりも軽い音だったことだけを、耳に留めた。

落ちそうな単位を、落ちない数字に書き換えておくことは、瞬きよりも簡単だった。パチンコの玉の行き先を、今夜だけ曲げておくことも。遍は、しなかった。迅の落とす単位は、迅のものだった。負けて悔しがる夜も、たまに勝って人に奢る夜も、全部、迅のものだった。遍が指一本でそれを整えた瞬間、迅の一喜一憂は、遍の作品になってしまう。あの言葉は、千景だけのものではなかった。

夜、一人になると、遍は千景のことを考えた。

千景の目がこの先どうなっていくか。遍には、もう、すべて分かっていた。いつ、どの範囲が欠けていくか。何年後に、どこまで見えなくなるか。数字にすれば、たった数行で書き表せることだった。

その数行を、遍は一度も紙に書かなかった。書けば、それは決まった未来になる。書かなくても、決まっているのかもしれない。それでも、遍は書かないことを選び続けた。

かつて、遍は、数えきれないほどの祈りを見てきた。

日照りの村で、雨を乞うて土を叩く人々の列。時化の浜で、帰らない船の名を呼び続ける女たち。夜明け前の本堂で、誰に見られるでもなく手を合わせる老人。言葉は、いつも似ていた。どうか。どうか、どうか。人々は、届くかどうか分からない言葉を、届かないことの方が多いと知りながら、それでも投げ続けていた。遍には、長いあいだ、その行為の意味が分からなかった。遍の言葉は、必ず届く。届くどころか、言い終わる前に、世界の方から受け取りに来る。祈りとは、言葉が届かないかもしれない者にだけ許された、上等な時間だった。あの人たちの手の中にあって、遍の手の中にだけないものが、この世にはあるのだった。

ある夜、布団に入ったまま、遍は、思わず、こう思いかけた。

——どうか、千景の目が。

その先まで思う前に、遍は、慌てて自分の思考を断ち切った。

心臓が、久しぶりに大きく音を立てた。窓の外で、風が止んでいた。台所で、冷蔵庫の低い唸りが、半拍、途切れた気がした。世界が、遍の続きを待って、静かに息を潜めている。犬が飼い主の手元を見上げるときの、あの従順な間だった。何かが、今にも動き出そうとしていた。もう少しで、言い終えてしまうところだった。

言い終えていたら、どうなっていたか。遍には、痛いほどよく分かっていた。今この瞬間、千景の視野は、何の前触れもなく元通りになっていただろう。診察券の判子も、待合室の匂いも、彼女の手帳に書き込まれた予定も、すべて意味を失っていただろう。彼女が急いで撮ってきた写真の、あの焦りごと。彼女が「最後まで、この目で」と言ったときの、あの静かな声ごと。

願いはいつも、言い終わる前に叶う。七百年前から、遍はその法則の中で生きてきた。今夜も、その法則は何一つ変わっていなかった。変わったのは、その法則の刃が、初めて、遍のいちばん手放したくないものの方を向いた、ということだけだった。

遍は、布団の中で、しばらく息を整えた。心臓の音が、少しずつ、いつもの静けさを取り戻していく。その静けさを、遍は、これまでにない集中力で確かめ続けた。喉の奥に、言いかけた言葉の続きが、まだ湿ったまま残っていた。飲み込んでも、消えなかった。消えないまま、抱えているしかなかった。

千景の目を治したいと思う気持ちそのものを、消すことはできなかった。消したいとも、思わなかった。ただ、その気持ちを最後まで言葉にすることだけは、できなかった。してはいけなかった。

では、どうすればいいのか。

遍は、暗い天井を見上げながら、そのことだけを、何日も考え続けた。

答えが見えたのは、大学の帰り、千景と並んで歩いていたときだった。

秋の気配が、少しずつ街に混じり始めていた。街路樹の葉が、まだ緑を残しながらも、縁のあたりからわずかに色を変えている。千景はカメラを首から提げたまま、いつもより歩調がゆっくりだった。信号を二つ渡るあいだに、千景は三度、足を止めてレンズを構えた。塀の上の猫。乾物屋の軒先に吊るされた笊。バス停の時刻表の、日に焼けて読めなくなった一行。シャッターの音は、そのたびに乾いて鳴った。同じ機械の同じ音のはずなのに、押す指の速さで、音の長さが少しずつ違って聞こえた。その違いを聞き分けられるようになっている自分に、遍は、歩きながら気づいた。

「今日、検診だった」

千景が、そう切り出した。遍は、黙って続きを待った。

「今回は、特に悪い知らせはなかった。前と、ほとんど変わらなかったって」

千景の声には、それでも、いつもより少しだけ疲れの色が滲んでいた。悪い知らせがなかったことに安堵する気持ちと、変わらないという言葉の裏に潜む、ゆっくりとした確実さとを、同時に抱えているような声だった。

「大丈夫」

遍は、それだけ聞いた。千景は、小さく頷いた。

その頷きを見た瞬間、遍の中で、また、あの願いが頭をもたげた。

——どうか。

遍は、そこで、言葉を止めた。

今度は、慌てて断ち切ったのではなかった。意識して、そこで止めた。

「どうか」の先を、遍は言わなかった。言わないまま、千景の隣を歩き続けた。歩幅を、彼女の歩幅に合わせた。彼女の靴音と自分の靴音が、揃ったり、ずれたりを繰り返した。言い終えなかった言葉は、喉の奥で、行き場を失ったまま重くなっていく。遍は、その重さを、そのまま持って歩いた。持てる重さだった。持てる重さだ、ということが、遍には発見だった。