MAMAKAMI
第十話 解除条件
千景が神社の石段から落ちかけた瞬間、遍の中で何かが千切れる。三十日間封じられていた記憶と力が、一気に戻ってくる——それは、勝利ではなく、喪失だった。
鏡の前で自分に問うてから、遍は、何日か、いつも通りの顔をして過ごした。
講義に出て、迅と軽口を叩き、学食で飯を食う。水色のノートに書き留めた七件の記録のことは、誰にも話さなかった。話したところで、何がどうなるものでもない。ただ、あの夜以来、遍の目に映る世界は、少しだけ、以前とは違う質感を帯びていた。ちょうどよく変わる信号。ちょうどよく空く席。財布の底が見えた日に限って入る、バイトの日当。これまで背景に沈んでいた小さな都合の良さの一つ一つが、今は、薄い輪郭を持って浮かび上がって見えた。都合の良さを、遍はもう、見て見ぬふりができなくなっていた。
千景から誘われたのは、そんな折だった。
講義の後、廊下で呼び止められた。カメラのストラップを指で弄びながら、千景は、いつもの調子で切り出した。
「今度、大学の裏の神社、撮りに行くの。石段の光が、この時期だけ、いい角度で入るから」
「あの神社」
「賽銭、投げてたところ」
千景は、そう言って、小さく笑った。迅との賭け事の話は、どこかで耳にしていたらしい。遍は、詳しい説明を避け、ただ頷いた。
「暗室の先輩が、教えてくれたの。夕方の、ほんの十数分だけ。それを逃すと、また一年待つことになる」
「一年」
「光って、そういうものだから」
千景は、それだけ言うと、鞄からスケジュール帳を取り出し、日にちを指で辿った。遍は、その指先を、なんとなく目で追った。何でもない仕草のはずだった。だが、あの日の診察券を見て以来、遍は、千景の指の動き一つ一つに、以前より少しだけ、注意を払うようになっていた。
「日曜。夕方の四時に、鳥居の下」
「分かった」
それだけで、約束は決まった。千景は、決まった、というふうに一度だけ頷いて、廊下の向こうへ歩いていった。遍は、その背中を見送りながら、一年に十数分しか射さない光のことを考えた。誰かが測って決めたわけでもないのに、木々の隙間と石段の角度が、たまたま、そういう十数分を作っている。世界のそういう部分だけは、誰の都合とも関係なく、ただそこにあるものらしかった。
日曜、遍は約束より早く、神社に着いた。
鳥居の下から見上げると、石段は、木々の影の中を、ゆるく折れながら上っていた。参道の脇には手水舎があり、竹の樋から落ちる水が、鉢の中で細い音を立て続けていた。人の姿は、ほとんどなかった。犬を連れた老人が一人、石段の下を横切っていっただけだった。
遍は、石段のいちばん下の段に腰を下ろして、千景を待った。
賽銭を投げて遊んだ日のことを、思い出した。あの日、遍は、賽銭箱に落ちる小銭の音を、一回ごとに数えていた。数えることに夢中で、石段そのものは、ろくに見ていなかった。今日、あらためて眺めると、長い年月を経て、石の表面は丸く磨り減り、苔の緑が、段の隅々に食い込んでいた。段の中央だけ、苔の色が浅い。何百年ぶんの足の裏が、そこだけを選んで、踏み減らしてきたからだった。賽銭を投げた日には気にも留めなかった段の一つ一つが、それぞれ違う高さと傾きを持っていることに、遍は初めて気がついた。
千景は、時間ちょうどに現れた。いつもの一眼レフを首から提げ、三脚は持っていなかった。
「今日は、身軽に動きたいから」
二人は、石段の下に並んで立った。光は、まだ来ていなかった。木々の上の方だけが明るく、石段は、影の底に沈んでいた。
「まだ」
「まだ。あと三十分くらい」
千景は、石段の下を行ったり来たりしながら、時々、掌を空に向けて、光の落ち方を確かめた。露出計より先に、掌で確かめる癖があるらしかった。遍は、少し離れた場所から、その手つきを眺めていた。
「来なかったら、どうするの。曇ったりして」
「待つだけ。来週も、来年も」
千景は、こともなげに言った。遍は、空を見上げた。西の方に、薄い雲がかかっているだけだった。あの雲が三十分後にどこへ流れているのか、遍には分からなかった。光が約束通りに射すのかどうかも、分からなかった。分からないまま、石段の下で、ただ光を待つ。手水の音と、遠くの踏切の音だけが、境内に届いていた。その三十分は、何も起こらない時間のはずなのに、少しも長くは感じられなかった。
光は、来た。
木々の隙間を抜けた夕方の光が、石段の斜面に、斜めに差し込んだ。段の縁という縁が、一斉に、細く光った。影の底に沈んでいた石段が、下から上まで、明るい段と暗い段の縞になった。
千景は、何も言わずに、カメラを構えた。
境内の入り口から、何度かシャッターを切っては、少しずつ石段に近づいていく。露出を確かめ、角度を確かめ、納得のいく一枚を探して、真剣な顔でファインダーを覗き込む。遍は、邪魔にならないよう、石段の脇に寄った。それでも、千景のレンズは、何度か、遍のいる方角を向いた。撮られたのかどうかは、分からなかった。千景は何も言わず、遍も、訊かなかった。
「もう少し上から撮りたいの」
千景は、カメラを首から提げたまま、石段を上り始めた。遍は、少し離れて後に続いた。段は、踏み面が狭く、手すりもない。何百年も昔から、そういう作りの石段だった。夕方の逆光が、段の縁を、まぶしいほど鋭く縁取っている。縁取られた光のぶんだけ、段の影は、深くなっていた。
中腹あたりで、千景が足を止め、カメラを構えた。ファインダーを覗き込んだまま、少しでもいい角度を探して、爪先で立つように、半歩、体を石段の外側に寄せる。
その瞬間だった。
千景の体が、大きく傾いだ。
あとから遍が思い返しても、何が起きたのか、正確には言葉にできなかった。足が滑ったのか、段の高さを見誤ったのか、それとも、視野の欠けたところに、段そのものが、一瞬だけ消えて見えたのか。理由は、どうでもよかった。ただ、千景の体は、石段の外側に向かって、確かに傾いていた。
遍の内側で、何かが千切れた。
音のない、しかし、確かな手応えのある千切れ方だった。長いあいだ、頑丈な糸で縛られていた何かが、一瞬にして断ち切られる感触。それが、遍の内側の、いちばん深いところで起きた。
世界が、光った。
比喩ではなかった。遍の内側の、これまで暗く閉ざされていた場所に、無数の光が、一斉に灯り始めた。
最初に灯ったのは、いちばん近い光だった。千景の体が、あと何分の一秒で、どの角度で、どの速さで、石段の外側へ落ちていくか。着地する先の地面の硬さ、下草に隠れた木の根の位置、千景の手首の骨が、どの強さの衝撃までなら耐えられるか。そのすべてが、瞬時に、遍の中で明らかになった。
光は、そこで止まらなかった。近い光の次に、少し遠い光が灯った。今夜、千景がどんな顔で家に帰るか。数日後、この写真がどんな一枚に仕上がるか。商店街の福引きの結果。隣の犬が、次に脱走する日。三十日前、遠い方から順に消えていった灯りが、今は、近い方から順に、点き直されていた。この町の明日。まだ生まれていない誰かの名前。誰も掘り当てていない水脈の在り処。百年先の空模様。台所のいちばん小さな光——母が明日の朝、味噌汁に何を入れるつもりでいるか。それも、灯った。
最後に灯ったのは、いちばん遠い光だった。七百年ぶんの、遍自身の記憶。崩れない壁のこと。永遠に続くと言われた国のこと。王の戴冠、尾を引く星、山寺の老僧の碁、疫病の町——そのすべてが、閉じていた扉を蹴破るようにして、一度に、遍の中へ戻ってきた。
知らないということが、なくなった。
千景の体は、まだ、傾き始めたばかりだった。時間が止まったわけではない。遍の側が、時間よりずっと速くなっただけだった。その長い長い一瞬のあいだ、遍にできることは、いくらでもあった。だが、選べるものの多さは、遍を少しも自由にしなかった。
遍は、その奔流の中で、ただ一つのことだけを、選んだ。
千景の落ちる先、石段の脇に生えていた古い木の根が、地面から、ほんの数センチだけ、盛り上がった。千景の足首が、そこに触れる。体の傾きが、わずかに逸れる。同時に、遍の腕が、千景の肩を掴んだ。
それだけのことだった。誰かが見ていたとしても、青年が、とっさに手を伸ばして、転びかけた友人を支えた——それ以上には、見えなかっただろう。
「大丈夫」
遍は、そう言った。自分の声が、いつもより低く、静かに響くのを、遍自身、他人事のように聞いていた。三十日のあいだ使ってきた声と、同じ喉から出ているはずの、違う声だった。
千景は、遍の腕に支えられたまま、しばらく肩で息をしていた。掌をすりむいたらしく、石段に手をついた跡が、薄く血の色を滲ませている。だが、それだけだった。落ちれば折れていたはずの骨も、割れていたはずの頭も、何ひとつ、その身に起きていなかった。
「ありがとう。危なかった」
「うん」
千景は、掌の傷を服の裾で軽く拭い、体勢を立て直した。まだ少し青ざめた顔で、それでも、いつもの調子で、カメラのレンズに傷がないか、真っ先に確かめていた。守るものの順番が、体に染みついている人の動きだった。
遍は、その様子を見ながら、自分の内側に戻ってきたものの重さを、静かに受け止めていた。戻ってきた記憶のすべてが、まだ昨日のことのように、鮮明に並び直されていく。
そして、思い出した。三十日前、自分がしたことのすべてを。
帳面。実験番号、四千七百十一。三十日間、記憶と力を封じる、という条件。そして——目を逸らしたまま書いた、もう一つの条件。
遍は、それを、今、はっきりと思い出した。あの夜、机の上まで流れ込んでいた夜気。ペンを走らせた、手の感触。書き終えた一行を、最後まで目で追わなかったこと。読み返せば、迷いが戻る気がしたこと。何を条件に選んだのか、半分だけ忘れることにしたこと。忘れることにした半分が、今、戻ってきた。
解除条件、大切な人の危機。
三十日という期限を待たずとも、封印を解く方法が、もう一つだけあった。遍という青年が、誰かを、心の底から大切に思い、そしてその誰かが、命の危機に晒されたとき。そのときだけ、封印は、自動的に解ける。
期限が来れば、封印はどのみち解けた。だから、あの一行は、遍を守るための安全装置ではなかった。書いた本人が最後まで目で追えなかったのは、たぶん、そのせいだった。あれは、安全装置の形をした、問いだった。三十日のうちに、お前は、失うことを恐れるほど大切な誰かを、作れるか。
大切なものは、作れるか。
幸福だったはずの三十日が、遍の中で、静かに色を変え始めた。寝坊した朝の、外階段を鳴らして駆け下りた音。学食で交わした軽口。迅と過ごした日雇いの一日と、安い打ち上げの酒。母の作る豚汁。山で打たれた、逃げ場のない夕立。千景のファインダー越しの視線。そのどれもが、遍にとっては、まぎれもなく本物だった。だが同時に、そのすべてが、遍自身が仕掛けた、ひとつの試験でもあった。答案は、今、この石段の上で出た。封印が期限より早く解けたということは、遍が、大切な人を作ることに、成功した、という証明だった。
実験は、成功していた。成功という言葉が、これほど寒い手触りをしていることを、遍は知らなかった。
遍は、目の前で、まだ少し息を乱している千景を見た。この人への気持ちが、偽物だとは、遍にはどうしても思えなかった。それでも、この気持ちが芽生えた場所そのものが、遍自身の設計した実験の中だったという事実は、消えなかった。遍は、戻ってきた記憶の中を、探してみた。千景が、いつから「大切な人」になったのか。その境目が分かれば、それより前と後を、分けて考えられる気がした。だが、境目は、どこにもなかった。学食の一枚の写真から、石段のこの瞬間までの、どこを探しても、ここから、と印のついた場所はなかった。すべてを思い出せるのに、いちばん知りたい一行だけが、どの頁にも書かれていなかった。
本物であることと、仕組まれていたことは、両立するのだろうか。
迅との友情は、どうだったのか。迅は、条件の対象にはならなかった。遍は、そのことに気づいた。封印が解けたのは、あくまで千景の危機によってだった。迅と過ごした時間は、実験の成否とは関係のないところで、ただ積み重なっていた。だとすれば、迅との友情だけは、純粋に、遍自身が選び取ったものだったのだろうか。それとも、いずれ迅も、同じように試される日が来るはずだったのだろうか。
考えても、きりがなかった。遍には、まだ、その答えが出せなかった。
「常盤、大丈夫。さっきから、黙ったまま」
千景の声で、遍は我に返った。
「大丈夫。少し、驚いただけ」
その言葉は、嘘ではなかった。ただ、千景が思っているのとは、まるで違う種類の驚きだった。
目の前の千景を見ただけで、遍にはもう、すべてが分かってしまっていた。眼科の診断名。進行の速さ。この先、視野がどんな順序で欠けていくか。いつ頃、どの程度まで見えなくなるか。医師が「ほとんど変わりありません」という言葉に包んで渡し続けてきたものの、包みの中の、正確な数字。聞いてもいないのに、知りたくもなかったのに、それらの答えが、向こうから押しかけるように、遍の中へなだれ込んできていた。千景を受け止めた、あの一瞬の計算の中に、千景の目のことが、含まれていたからだった。落ちる理由を知らないまま、落ちる体だけを受け止めることは、できなかった。
知らないでいることを、遍はこれまで、千景に対して守ってきたつもりだった。診察券を見た夜も、それ以上は踏み込まなかった。踏み込んではいけない場所がある、ということを、肌で覚えた夜だった。だが今は、踏み込む踏み込まないの以前に、答えの方が、もう遍の中にある。壁を越えたのではなかった。壁そのものが、遍の側からだけ、消えてしまったのだった。この分かってしまうという感覚が、千景という一人の人間から、何か大切なものを黙って持ち出してしまった気がして、遍は、その場に立ったまま、しばらく身動きが取れなかった。
光は、もう、石段から引き上げ始めていた。十数分の光だった。千景は、掌の傷を気にしながらも、カメラの駒数を確かめ、小さく頷いた。
「撮れた。たぶん、いいのが」
「よかった」
二人は、石段をゆっくり下りた。千景は、一段ごとに、さっきより慎重に足を置いていた。遍は、半歩後ろを、いつでも手の届く距離で下りた。段の高さも、千景の靴の裏の減り方も、次にどの段で千景の足がわずかに迷うかも、遍にはもう、見えていた。見えていることを悟られないように下りるのは、思っていたよりも、難しかった。
空は、既に茜色から、藍色へと変わりかけていた。
見上げると、星が浮かび始めていた。遍には、そのひとつひとつの名前も、成り立ちも、燃え尽きるまでの残り時間も、すべて分かった。分かってしまうということが、これほどまでに重いことだったと、遍は忘れていた。三十日前、遍は、この分からなさを、久しぶりの懐かしさとして、抱きしめて眠りについた。今、その懐かしさは、遍の手の中から、静かに滑り落ちていった。
駅までの道を、千景と並んで歩いた。千景は、掌の傷を気にしながらも、道すがら、今日の写真の話を、楽しそうに続けた。石段の縞の話。段の縁の光の話。現像が待ち遠しい、という話。遍は、相槌を打ちながら、その声に、耳を澄ませた。話の中身は、聞く前から分かった。だが、声の高さ、間の取り方、笑いが言葉に混ざる瞬間の、その混ざり方。それだけは、まだ、聞かなければ分からなかった。世界の中身は、また全部、読めるようになってしまった。世界の肌ざわりだけが、かろうじて、遍の知らないものとして残っていた。
この声を、あと何年、聞いていられるのか。遍には、もう、その答えさえ分かってしまう。分かるということが、こんなにも、人から何かを奪うものだとは、封印の前の遍は、考えたこともなかった。
駅前で、千景と別れた。
「今日は、ありがとう。写真も、助けてもらったのも」
「うん。気をつけて」
千景の後ろ姿が、改札の向こうに消えるのを、遍は見送った。見送りながら、遍は、その後ろ姿の何もかもを、既に知っている自分に気づいていた。今夜、千景が何時に眠るか。明日、どの講義に出るか。あの掌の傷が、何日で塞がるか。三十日前まで、それが遍の当たり前だった。当たり前に、戻っただけだった。戻っただけなのに、遍は、改札の前から、しばらく動けなかった。
帰り道、遍は一人、夜道を歩いた。
交差点に近づくたび、信号は、遍の歩調を測ったように青に変わった。三十日のあいだ、遍は、赤信号の前で立ち止まることを覚えた。何も起こらない一分半を、ただ待つことを覚えた。その一分半が、もう、どこにもなかった。町のあちこちで、遍の形をした隙間が、また先回りして開き始めていた。世界は、遍のことを、忘れていなかった。
歩きながら、戻ってきた記憶の中から、一人の顔が浮かんできた。
かつて、ある港町で、漁師として四十二日を過ごしたことがある。あのときも、期限を過ぎて、遍はその町に残った。船主の娘は、年を重ねるごとに、遍の変わらない顔を見て笑うようになった。あんたは海の神様の忘れ物だ、と言って、それ以上は何も訊かなかった。娘の葬列が浜を行った日、港には季節外れの凪が来た。帳面には、失敗、とだけ書いた。何が失敗だったのか、今でも、正確には言葉にできない。
そして、今回の実験を設計した夜の自分が、あの頁を読み返していたことも、思い出した。今回もまた、同じ轍を踏むのかもしれない。踏んでもいい——三十日前の遍は、確かに、そう思っていた。轍は、思っていたよりずっと早く、思っていたのと少し違う形で、遍の足の下に現れた。
アパートに着き、遍は電気もつけずに、しばらく玄関に立っていた。
三十日前、この部屋を初めて見たとき、そこは何もかもが「そういうことになっている」だけの、空っぽの器だった。今は、暗がりの中でも、一つ一つの位置が分かった。机の傷。畳の焼け方。窓の建て付けの悪さ。流しに伏せた、一つきりの茶碗。どれも、遍自身が、この三十日で刻んだものだった。器は、いつのまにか、部屋になっていた。
遍は、灯りをつけ、机の前に座った。
引き出しには、水色の表紙の大学ノートが入っていた。定期入れの一件から、宝くじの一件まで、七つの記録を書き付けた、あのノートだった。
遍は、それを開き、七件の記録を、まったく違う目で読み返した。定期入れが戻ってきたのは、遍が落とした瞬間、世界がその場所を、静かに巻き戻したからだった。看板が倒れたのは、風向きと運転手の視線と看板の設置角度を、遍の無事という一点に収束させるよう、無数の変数が、あらかじめ調整されていたからだった。和菓子屋の主人の記憶も、湯加減も、コイントスの五分五分も、宝くじの外れ方も、賽銭の入り方も——そのすべてに、理由があった。理由が分からなかったのは、遍が、その理由を知る手段を、自分自身で封じていたからに過ぎなかった。
唯一の例外だと思っていた、山の夕立にも、理由はあった。遍は、その理由を見て、頁をめくる指を止めた。世界は、あの日、遍を守り損ねたのではなかった。あの雨に打たれることを、封印の下の遍の、いちばん深いところが望んでいた。世界は、それさえ、几帳面に叶えていた。例外だと思って大事に抱えてきた一件は、例外ですらなかった。
七件の「短い所感」の欄には、あの夜の遍が書いた、戸惑いだけの言葉が並んでいた。今なら、そのすべてに、正確な注釈をつけられる。だが、遍は、ペンを取らなかった。注釈をつけてしまえば、あの戸惑いそのものが、色褪せてしまう気がした。分からないまま書かれた文字は、分からないまま書かれた文字のままに、しておきたかった。それは、三十日の遍が遺していった、数少ない筆跡だった。
あの家に戻れば、机の引き出しの奥に、古い帳面がある。実験番号四千七百十一の頁に、結果を書き足さなければならない。日付。条件。結果。短い所感。
結果の欄に書くべき言葉は、決まっていた。三十日を待たずに解除。条件、成立。
短い所感には、何を書けばいいのか、遍にはまだ、分からなかった。
遍は、ノートを閉じ、灯りを消した。
畳の上に、仰向けになる。天井の木目が、暗がりの中でも、一本ずつ見えた。目を閉じても、同じだった。まぶたの裏で、世界中の光が、静かに灯り続けていた。この町の明日。千景の目の、この先。母の台所。百年先の空模様。どこを向いても、もう、暗い場所はなかった。
ひとつだけ、灯らない場所があった。
遍自身が、明日、何を選ぶか。千景の目のことを知ってしまった自分が、その知っていることを、どうするのか。世界のすべてが見える場所から見ても、そこだけは、白いままだった。昔から、そこだけは、そうだった。それが、遍に残された、たったひとつの読めない頁だった。
三十日前、世界は、暗くなった。
今夜、世界は、隅々まで明るかった。
遍は、目を閉じたまま、長いあいだ、動かなかった。
眠る必要は、もう、なかった。