MAMAKAMI

第九話 都合の良い世界

積み重なる「都合の良さ」に気づいた遍は、実験ノートさながらに自分の幸運を検証しはじめる。導き出された結論は、確率的にありえないというもの——鏡の前で、遍は初めて自分に問う。

雨のことが、遍の頭から離れなかった。

山であの雨に打たれてから、一週間ほどが過ぎていた。ずぶ濡れになったこと自体は、もうただの思い出だった。乾いた服も、山道の疲れも、とうに元通りになっている。ただ、思い出のいちばん底に、小さな棘のようなものが、まだ引っかかっていた。

これまでの人生で、遍が本降りの雨に、逃げ場なく打たれたことは、ほとんどなかった気がする。理由は分からない。ただ、いつも、なぜか一歩先で、雨はやんでいた。その記憶を辿ろうとしても、確かな輪郭は掴めなかった。ただの思い込みかもしれない。運がいいだけの人間は、世の中にいくらでもいる。

それでも、遍は、その棘を、そのまま流すことができなかった。

講義のあいだ、遍は教授の話をほとんど聞いていなかった。ノートの端に、気づけば、これまでの奇妙な出来事を、箇条書きにし始めていた。定期入れ。看板。和菓子屋の主人。湯加減。書き出してみると、思いのほか数が多いことに、遍は気づいた。一つ一つは、忘れてしまえる程度の小さな出来事だった。だが、並べてみると、忘れるには惜しい形をしていた。

大学からの帰り道、遍は文房具屋に寄った。棚の前で、罫の幅と頁の厚さを見比べ、少しのあいだ迷ってから、迷うほどの買い物ではないことに気づいた。手に取ったのは、何の変哲もない大学ノートだった。表紙は無地の水色で、他のノートと比べて、特に選ぶ理由はなかった。ただ、講義中に書きなぐったものを、もっとちゃんとした形で残しておきたかった。理由は、自分でもうまく説明できなかった。レジで小銭を数えながら、遍は、ノート一冊ぶんの出費を、今月の財布の残りと照らし合わせた。少し、惜しかった。惜しいと思える買い物は、たぶん、本気の買い物だった。

その夜、机に向かい、遍はノートの一頁目を開いた。

ペンを持つと、ペン先が、頁のいちばん上で、少しのあいだ浮いた。何かの番号を振ろうとして、手が勝手に構えていた。何の番号なのか、遍自身にも分からなかった。通し番号をつけるほどのものを、まだ何も始めていない。遍は小さく息を吐いて、日付から書き始めた。

日付。状況。結果。短い所感。

書き終えて、遍は自分の字を、しばらく眺めた。この形式を、誰かに教わった覚えはない。それでも、書き出してみると、驚くほど自然に手が動いた。罫線の上に字を揃えるときの、指先の力の入れ具合まで、あらかじめ決まっていたような気がした。まるで、ずっと前から、こうやって記録をつける癖があったかのように。遍は、その感覚を、深くは追わなかった。追い方が、分からなかった。

一件目。学食で定期入れを落とした日。財布に挟んでいた小銭まで含めて、あの日のうちに、寸分違わぬ形で手元に戻ってきた。届けてくれた学生は、拾った場所をうまく説明できなかった。

二件目。日雇いの仕事帰り、信号待ちに突っ込んできた車。店先の立て看板が突風に煽られて、遍と車のあいだに、都合よく滑り込んだ。迅は「悪運が強い」と笑っていたが、遍には、笑ってすませられるほどの偶然には見えなかった。

三件目。母の家の近くの和菓子屋。三度ほどしか通っていない店の主人が、遍の顔と好みを、まるで常連のように覚えていた。

四件目。同じく母の家の台所。蛇口をひねってから湯が出るまでの間が、いつもより明らかに短かった。

五件目。山での夕立。他のことは、いつも通り「都合よく」運んでいるように見えるのに、この日だけは、逃げ場もなく本降りに打たれた。都合の良さが、たった一度だけ、綺麗に外れた。

五件目を書き終えて、遍はペンを止めた。

他の四件と、五件目は、性質が違う気がした。都合が良い方に転がるのではなく、都合が悪い方へまっすぐ進んだ、唯一の例。その一件だけが、他の全部を、裏側から照らしているような気がした。

頁の隅に、遍はもう一つ、番号を振らずに書き足した。写真。千景に言われた言葉のことだ。あなたの周りの光の方が、あなたのことだけ、律儀すぎるくらい正確に扱っている——出来事と呼べるのかどうか、遍には判断がつかなかった。ただ、この頁に置いておくべきものだ、という感触だけが、確かにあった。

ノートを閉じ、遍はしばらく、天井を見上げた。

これだけでは、まだ何も言えない。誰かに話せば、気にしすぎだと笑われるだろう。思い出というのは、目についたものだけを並べて、勝手に模様を描きたがる。拾い集めた偶然に、後から糸を通すことなら、誰にでもできる。だから、後から思い出すのではなく、これから起きることを数えればいい。回数を先に決め、予想を先に書き、結果だけを拾う。向こうからやってくる偶然を待つのではなく、こちらから、偶然に決まった数の席を用意してやる。

遍はノートを開き直し、二頁目に、明日からの小さな計画を書き並べた。書きながら、また、手が妙に慣れていることに気づいた。気づいて、やはり、追わなかった。

翌日、遍は迅を誘って、駅前のパチンコ屋に入った。

「常盤から誘うの、珍しいな」
「たまには」

店内は、軍艦マーチと、玉のぶつかる音で満ちていた。煙草の匂いが、天井の換気扇では吸いきれず、床の近くに薄く溜まっている。座る台は、入り口から数えて七番目、と昨夜のうちに決めてあった。台を選ぶ手つきにまで、自分の癖が混ざらないようにするためだった。迅は、機嫌よく隣の台に座り、いつもの調子で玉を弾き始めた。

一時間ほど、二人は並んで台に向かい合った。迅の台は、いつも通り、なかなか大当たりを引かなかった。「今日も駄目だ」と、迅は何度もぼやきながら、それでも楽しそうに玉を打ち続けた。負けることそのものを、どこかで面白がっているような打ち方だった。

遍の台は、違った。大当たりこそ出なかったが、玉が減るでもなく増えるでもなく、投じた分と、ほぼぴったり同じ数だけ戻ってきた。損もしない。得もしない。玉皿の玉を、遍は何度も目算した。狙って調整しているとしか思えないほど、結果が一定の幅の中に収まり続けていた。台を変えても、同じことが起きた。三台目でも、四台目でも。

「お前、勝ってんのか負けてんのか分かんねえな」
「そんなようなもの」
「つまんない打ち方だな。もっと熱くなれよ」

迅は笑い、遍はそれ以上、何も言わなかった。玉皿に残った玉を数え、遍は静かに席を立った。店を出ても、耳の奥では、しばらく機械の音が鳴り続けていた。その晩、ノートに一行が増えた。六件目。パチンコ、出た玉と投じた玉、ほぼ同数。

数日後、遍は学食で、迅を相手にコイントスを持ちかけた。

「暇つぶし。十回やって、多く勝った方が奢り」
「乗った」

硬貨を弾き、掌に受け止める。表か裏か、迅が声を上げる。一回目、迅の勝ち。二回目、遍の勝ち。三回目、四回目と、勝敗は交互に近い形で積み重なっていった。十回目が終わる頃には、五回ずつ、きっちり分かれていた。

「五分五分ちょうどとか、逆に気持ち悪いな」
「そう?」

遍は、それだけ答えて、コインを財布にしまった。迅は、特に気にする様子もなく、学食のうどんをすすっていた。だが遍の中では、五対五という結果が、単なる偶然の範囲を、静かに、しかし確実にはみ出し始めていた。十回のコイントスが、ちょうど五分五分に収まる確率は、思ったより低い。頭の中で数字を転がしながら、遍は、背筋の辺りが冷たくなるのを感じた。その晩、七件目の行が増えた。コイントス、十回中五回。

その二日後の夕方、遍は迅と連れ立って、大学の裏門から続く坂を下っていた。迅の自転車の後輪が、間の抜けた音を立てたのは、坂の途中だった。

「あーあ。またかよ」

見れば、後輪のタイヤが、見事に潰れていた。パンクだった。迅は大袈裟に天を仰ぎ、それから、ひどく慣れた手つきで自転車を押し始めた。線路沿いに古い自転車屋が一軒あって、そこの親父とはもう顔馴染みなのだと言う。

「またって、よくあるの」
「よくあるなんてもんじゃねえ。今年に入って三回目。前のは釘踏んで、その前は虫ゴムが逝った。だいたい俺は昔から自転車運がねえんだよ。中学んときなんか、買って一週間の新車を川に落とした」
「どうやって」
「聞くなよ。思い出すと今でも泣ける」

自転車屋までの十五分、迅は頼まれてもいないのに、自分の不運の目録を並べ続けた。盗まれた傘が、この一年で四本。バイト先のシフト表で、いまだに名前を間違えられ続けていること。楽勝だと言われた講義に限って落とす単位。並んだ瞬間に売り切れる学食の日替わり。話は次々と枝分かれして、そのどれもが、迅の中では笑い話の棚に、きちんと仕舞われているらしかった。

遍は、相槌を打ちながら、頭の中で数を数えていた。迅の身に、この数ヶ月で起きた小さな不運の数。指を折るまでもなく、両手では足りなかった。

それから、自分の番を数えようとした。

数えるものが、なかった。

財布を落としたことはない。正確には、落としても、そのまま戻ってきた。傘を盗まれたことはない。置き忘れた傘は、翌日、同じ傘立ての同じ位置に残っていた。パンクは——。

「なあ、常盤ってチャリ、パンクしたことあんの」

迅が、こちらの頭の中を読んだような間合いで訊いてきた。

「……ない、と思う」
「だろうな。お前のあのボロチャリ、俺のより年季入ってんのに、タイヤだけ妙に元気なんだよな」

迅はそれだけ言うと、また自分の話に戻っていった。彼にとって、遍のパンクの有無は、話の枝の一本に過ぎなかった。遍にとっては、違った。同じ道を、同じくらいの頻度で、同じような値段の自転車で走っている人間が二人いて、片方だけが釘を踏み続け、片方は一度も踏まない。道に落ちている釘は、乗り手を選ばないはずだった。

自転車屋の店主は、迅の顔を見るなり「またあんたかい」と笑った。修理を待つあいだ、迅は店先の自動販売機で缶の汁粉を二本買い、一本を遍に放ってよこした。

「この前のコイントス、引き分けだったろ。なんとなく納得いってねえから、これでチャラな」
「五分五分だったのに」
「五分五分だから納得いかねえんだよ。勝つか負けるかしろよ、ああいうのは」

缶の汁粉は、妙に甘く、掌に重かった。勝つか負けるかしろよ、という迅の言葉を、遍は舌の上でしばらく転がした。そのどちらもしないということ。それこそが、遍がいちばん確かめたくないことの、たぶん、真ん中にあった。

その晩も、行が増えた。八件目。自転車、パンクなし。傘、紛失なし。備考として、迅の側の数字も書き添えた。比べる相手のいる数字は、比べる相手のいない数字より、ずっと雄弁だった。

週末、遍は駅前の宝くじ売り場に立った。窓口の小さな窓越しに、老いた売り子が、番号の並んだ券を差し出してくる。迷った末に、一枚だけ、その場で削れるタイプの籤を選んだ。

硬貨の縁で、銀色の膜を削る。数字が、少しずつ顔を出す。当たりはしなかった。だが、末等にすら届かない、実に見事な外れ方だった。一つでも数字が合っていれば、と思うほどには惜しくなく、かといって、全ての数字が見当違いというほど極端でもない。まるで、当たりでも大外れでもない、ちょうど真ん中の結果だけを、狙って引き当てたかのような外れ方だった。

削り滓を掌に払い落としながら、遍は、売り場の脇にしばらく立っていた。列に並んだ人々が、一人ずつ窓口に屈み込み、券を受け取り、大事そうに鞄に仕舞っていく。皆、当たるかもしれないという顔と、どうせ当たらないという顔を、器用に半分ずつ浮かべていた。遍には、その半分ずつが、少しだけ羨ましかった。遍の手の中の籤は、削る前から、当たりもせず、大外れもしないことが、ほとんど決まっていたような気がしてならなかった。

その晩、ノートに新しい行を書き加えた。九件目。宝くじ、狙ったような外れ方。

頁を戻って、一件目から読み返す。日付。状況。結果。短い所感。読み返すうちに、遍は、すべての行に共通する形があることに、あらためて気づいた。大勝ちがない。大負けがない。悪い方向に大きく外れることも、良い方向に大きく外れることも、決してない。まるで、何か大きな手が、遍の周りの結果だけを、絶えず「ちょうどいい範囲」へ押し戻しているようだった。

しかも、その手は、遍を勝たせようとはしていない。得をさせようとも、していない。ただ、目立たせまいとしている。大当たりは引かせない。大負けもさせない。誰の記憶にも残らない、平均という名の物陰に、遍という一人ぶんの結果を、そっと仕舞い続けている。守られている、というより、隠されている、に近い気がした。

唯一の例外が、あの夕立だった。

遍は、腕を組み、しばらく考え込んだ。もし本当に何かが自分を守っているのだとしたら、なぜあの日だけ、守られなかったのか。守る側に、何か条件があったのか。それとも、あの日だけ、手が届かなかったのか。

考えても、答えは出なかった。ただ、答えが出ないという事実そのものが、遍の中で、確かな重みを持ち始めていた。

眠れる気がしなかったので、遍は溜まった洗濯物を抱えて、アパートの近くのコインランドリーへ出かけた。部屋の洗濯機が壊れたわけではない。ただ、手を動かしていたかったのと、もう一つ、確かめたいことがあった。

夜のコインランドリーは、白い光と、乾燥機の低い唸りで満ちていた。硝子張りの店内は、外の暗がりから見ると水槽のようで、中に入ると、洗剤と、温まった布の匂いがした。先客は一人だけ、作業着姿の老人が、パイプ椅子の上で船を漕いでいた。

遍は洗濯物を機械に入れ、硬貨を落とし、向かいのベンチに腰を下ろした。それから、ノートを開き、先に予想を書いた。終わるまでの時間。乾き上がりの具合。畳んだときの、靴下の枚数。

迅は前に、靴下は洗濯のたびに片方ずつ消える、あれはこの世の七不思議の一つだ、と力説していた。遍の洗濯物は、数が合わなかったことが、一度もない。

洗濯槽の中で、遍の一週間ぶんの生活が、泡と一緒に回っていた。眺めているうちに、奥の乾燥機が、途中で音を止めた。老人が目を覚まし、舌打ちをして立ち上がり、硬貨を入れ直し、機械の腹を平手で二度叩いた。機械は素知らぬ顔で唸りを再開し、老人はまた椅子に戻って目を閉じた。ありふれた夜だった。ありふれた不運が、ありふれた頻度で、遍以外の上にだけ、降っていた。

遍の乾燥機は、止まらなかった。仕上がりは、予想した時刻から、ほとんどずれなかった。靴下は六足、十二枚。数は、合っていた。

温かい洗濯物を抱えて、遍は夜道を歩いた。布越しに伝わる乾燥機の熱が、腕の内側で少しずつ冷めていった。十件目、と頭の中で行を足しながら、遍は、自分がもう、この検証をやめられなくなっていることに気づいていた。

数日後、遍は迅をもう一度誘い、大学の裏手にある古い神社へ行った。夕方の石段には人気がなく、境内の砂利は、西日で薄い橙に染まっていた。賽銭箱に小銭を投げる遊びを持ちかけたのは、遍の方だった。

「近すぎず遠すぎず、絶妙な距離から投げると燃える」

迅が勝手にルールを作り、二人は石段の途中から、交代で五円玉を投げた。距離を変え、角度を変え、迅の発案で、目をつぶってすら投げた。小銭が賽銭箱の縁に当たる音、木の底へ落ちる音、砂利に外れる音。迅は一投ごとに大袈裟にガッツポーズを取ったり、頭を抱えたりしながら、素直に遊びを楽しんでいた。遍は、その隣で、落ちる音を一回ずつ数えていた。

結果は、いつも通りだった。外れることもあれば、入ることもある。だが、極端に外れ続けることも、面白いように連続して入ることも、一度としてなかった。十回投げれば、だいたい四回か五回、賽銭箱に収まる。まるで、遍の運が、常に「平均的な青年」という枠の中に、几帳面に収められているようだった。

「お前、今日なんか変だぞ」
「そう?」
「賽銭投げの角度をそんなに真剣に検証するやつ、初めて見た。普通こんなの、適当に投げて終わりだろ」

迅は、笑いながらそう言った。それから、ふいに声の調子を半分だけ落とした。

「なあ、なんかあったなら聞くぞ。俺、口は軽いけど、気は長いから」

遍は、言葉を探した。誰かが自分を守っている気がする、と言えば、迅は笑うだろうか。笑わない気もした。笑わずに、真剣に聞いてくれる気がして、だからこそ、まだ言えなかった。確かめの済んでいないものを渡すには、この話は、少しだけ重すぎた。

「……いつか話す。たぶん」
「おう。忘れた頃に聞いてやる」

迅は、それだけ言って、最後の五円玉を放った。小銭は緩い弧を描き、箱の縁で一度跳ねてから、中に落ちた。迅は拝殿に向かって二度手を叩き、賽銭ぶんはちゃんと願っておくのが筋だと言って、長いこと何かを念じていた。何を願ったのかは、教えてくれなかった。

その翌日、遍は大学の図書館に寄り、統計の入門書を借りた。難しい数式を読み解くつもりはなかった。ただ、確率という言葉の輪郭を、もう少しはっきりさせておきたかった。

隅の閲覧席で、遍はノートの余白に、簡単な計算を書き並べた。計算の前に、まず、自分自身を疑った。都合の良い記憶ばかりを、選んで拾ってはいないか。だから頁を分けて、後から思い出した出来事と、先に予想を立ててから数えた出来事を、書き直して仕分けた。先に予想を立てた側——パチンコ、コイントス、宝くじ、洗濯、賽銭——だけを見ても、結果は同じ形をしていた。真ん中。真ん中。また、真ん中。

硬貨を十回投げて、ちょうど五回ずつに分かれる確率。賽銭が十回中四、五回だけ入り続ける確率。一つ一つは、決して起こり得ない数字ではなかった。単独で取り出せば、どれも、偶然として片付けられる範囲にある。

だが、遍が見ていたのは、一つ一つの数字ではなかった。同じ種類の「ちょうどよさ」が、これほど繰り返されるという、その頻度そのものだった。さいころを振って、三と四ばかりが出る。一度なら、誰も驚かない。十度続けば、さいころを疑う。百度続けば、疑いはもう、確信と呼ぶほかなくなる。個々の確率を順に掛け合わせていくと、数字は、頁の余白では足りないほど、桁を減らしていった。

閉架書庫の奥から、司書がカートを押す音が、静かに響いていた。遍は、計算式の並んだ余白を、しばらく見つめていた。数字は、嘘をつかない。嘘をつくとしたら、数字を読む側の願望だけだ。だが、遍には、都合の良い読み方をしている自覚はなかった。むしろ、認めたくない結論に、一桁ずつ追い詰められていく感覚の方が、ずっと強かった。

その夜、遍は一人、部屋でノートを広げた。賽銭の結果を十一件目に書き足すと、頁は三枚目に入っていた。一件目から、順番に読み返す。日付。状況。結果。短い所感。何度読み返しても、結論は同じところに行き着いた。

確率的に、ありえない。

遍は、その一文を、ノートの余白に書き足した。書いてしまうと、それはもう、ただの違和感ではなくなった。文字にした瞬間、それは、確かめなければならない事実に変わった。

誰かが、自分を守っている。守る、というよりも——調整している。悪いことが起きすぎないように。良いことが起きすぎないように。遍という一人の人間の周りだけ、世界がずっと、几帳面に帳尻を合わせ続けている。

そう考えると、これまで気にも留めなかった記憶が、次々と頭をよぎった。単位を落としかけて、ぎりぎりで救われたこと。財布の中身が底を突きかけた、ちょうどその日に、バイトの日当が入ったこと。数え出せば、切りがなかった。一つ一つは、運がいい、で済ませられる話だった。だが、それらが積み重なって描く形は、もう、運という言葉では覆いきれなくなっていた。

それでも、あの夕立だけが、まだ収まりの悪い形で残っていた。

遍は、唯一の例外を、指先で転がすように考え直した。守る手が届かなかったのか。何かの条件から外れたのか。それとも——そこまで考えて、遍は、いちばん見たくなかった可能性に行き当たった。

あの雨に打たれて、遍は、嫌ではなかったのだ。

全身が濡れて、服が重くなって、靴が泥を吸って、それなのに、あの数十分は、このひと月でいちばん確かな手触りをしていた。もし、遍を調整している何かが、そこまで見越していたのだとしたら。遍が自分でも気づかないほど深いところで、濡れたがっていたことまで、先回りして汲んでいたのだとしたら。

例外は、例外ではなくなる。

たった一度の外れまで、注文通りだったことになる。

遍は、その考えを、すぐには受け入れなかった。受け入れるには、根拠がなさすぎた。だが、一度形にしてしまった考えは、ノートに書いた一文と同じだった。もう、なかったことには、できなかった。

だとすれば、それをしているのは誰なのか。

母のことが、頭をよぎった。あのアルバムの、上手すぎる写真のことも。だが、母がこれほどの調整を、日々続けられるとは、遍には思えなかった。パチンコ台の釘から、山の天気から、道に落ちる釘の位置まで。もっと大きな、もっと得体の知れない何かが、この現象の裏にある気がした。

だとしたら、いつからなのか。物心ついた頃から、ずっとそうだったのか。それとも、ある時点を境に、急にそうなったのか。遍は、幼い頃の記憶を辿ろうとしたが、手がかりになるものは出てこなかった。記憶というのは、都合の良し悪しを、いちいち帳面につけてはくれないものらしかった。

遍は、ノートを閉じ、洗面所に立った。

蛇口をひねり、顔を洗う。頭上で、蛍光灯が微かに鳴っていた。鏡に映る自分の顔を、遍はしばらく見つめた。特に変わったところのない、二十歳前後の青年の顔だった。癖のない髪。整いすぎてはいないが、崩れてもいない目鼻立ち。毎朝毎晩、何百回、何千回と見てきたはずの顔だった。

だが今夜、その顔は、どこか、知らない誰かの顔のようにも見えた。

この顔の周りで、世界は帳尻を合わせ続けている。この顔が濡れたがれば、雨を降らせ、この顔が目立ちそうになれば、結果を丸める。だとしたら、その帳尻の真ん中にいるこれは、いったい何なのか。平均的な青年、という枠は、仕舞われているものの名前であって、中身の名前ではなかった。枠の中身を——自分自身のはずのそれを——遍は、初めてまじまじと見た。

遍は、鏡の中の自分に向かって、小さく呟いた。

「お前は、誰だ」

鏡の中の顔は、当然、何も答えなかった。ただ、じっとこちらを見つめ返してくるだけだった。

遍は、蛇口の水を止めた。

水音が消えると、部屋は、急に静かになった。蛇口の先から、落ちそこねた水滴が一粒、間を置いて落ちた。その音まで聞こえるほどの、静けさだった。

その静けさの中で、遍は、これまで見て見ぬふりをしてきた小さな違和感の一つ一つが、はっきりと輪郭を持ち始めているのを感じた。都合の良さ。都合の良さの、たった一度の例外。上手すぎる写真。覚えられていた顔。ちょうどよすぎる湯加減。釘を踏まないタイヤ。数の合う靴下。

それらは、もう、ばらばらの偶然としては扱えなかった。何か一つの、大きな絵の断片のように見えた。ただ、その絵の全体だけが、まだ、遍には見えていなかった。

布団に入っても、遍はしばらく眠れなかった。天井を見つめながら、ノートに書いた一文を、頭の中で何度も繰り返した。確率的に、ありえない。それを書いたときの、自分の手つきの妙な慣れ方まで、今は違和感の列の末尾に、静かに並びたがっていた。

明日になれば、また、いつも通りの一日が始まるのだろう。講義に出て、迅と軽口を叩き、千景の撮った写真の話をする。パチンコ台は帳尻を合わせ、蛇口はちょうどいい湯を出し、傘は盗まれないまま、そこにある。

昨日までは、それを、運のいい日常と呼んでいた。

今夜からは、何と呼べばいいのか、分からなかった。

遍は、目を閉じた。閉じたまぶたの裏に、鏡の中の自分の顔が、まだ、うっすらと残っていた。

「お前は、誰だ」

答えのないその問いだけを抱えたまま、遍は、長い夜の中に沈んでいった。