MAMAKAMI

第八話 雨に降られる

千景に誘われた二度目の撮影行、山を襲う夕立。「濡れたくて濡れる雨はないの」——遍が初めて、逃げ場なく雨に打たれた日に、彼女の目の秘密を知る。

講義室の前で、千景に声をかけられたのは、木曜日の翌週のことだった。

その日の講義は、いつもより早く終わった。教授が急用で早退したとかで、学生たちは半分戸惑い、半分浮き足立ちながら教室を出ていった。迅は、真っ先に「飯行くぞ」と誘ってきたが、遍が返事をする前に、廊下の先から千景が近づいてきた。

「今度の日曜、時間ある」
「ある。何」
「もう一回、撮らせてって言ったの、覚えてる」
「覚えてる」

千景は、頷いた。それだけで、話は決まったらしかった。

「山、行くの、朝早く」
「山」
「電車で一時間くらい。展望台があって、そこから撮りたいものがあるの」

遍は、それ以上の説明を求めなかった。千景も、それ以上は説明しなかった。日曜の待ち合わせ場所と時間だけを決めて、千景は踵を返し、廊下の向こうへ歩いていった。

その背中が見えなくなってから、隣で聞いていた迅が、遍の脇腹を肘でつついた。

「山って、お前。朝から二人で山って、それ、ただの撮影なのか」
「ただの撮影だと思う」
「思う、って」

迅は、呆れたように笑って、それ以上は追及しなかった。その代わり、昼飯のあいだじゅう、日曜のための助言を並べ立てた。飲み物は多めに持て。靴は履き慣れたやつにしろ。飴を一袋、鞄に入れておけ。バイト先の先輩の受け売りだという知識は、半分ほどは役に立ちそうで、残りの半分は、聞いているうちに、山ではなく海の話に変わっていた。

日曜の朝、遍は目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。

カーテンを開けると、空は薄い灰色だった。晴れとも曇りとも、どちらともつかない色をしていた。この色の空が昼にどちらへ転ぶのか、遍には見当のつけようがなかった。見当がつかないまま家を出るしかない、ということが、山へ行く日の朝には、妙に据わりの悪いような、それでいて、どこか背筋の伸びるような感触を連れてきた。

駅までの道の途中、コンビニに寄って、握り飯を二つと、ペットボトルの水を買った。傘の棚の前で少しだけ足を止め、財布の中身を思い浮かべて、やめた。朝の店内は空いていて、レジの店員は、眠そうな目で品を通した。

改札の前に、千景は先に来ていた。いつもの一眼レフを首から提げ、背中には、見慣れない大きさのリュックを背負っている。リュックの脇に、小さな鈴がひとつ、結びつけられていた。歩くたびに、控えめな音が鳴った。

「それ、鈴?」
「熊よけ。出ない山だけど、癖で」

中には、フィルムと、着替えと、簡単な雨具が入っているという。

「山なのに、そんなに荷物」
「山だから」

早朝の下り電車は、空いていた。座席のところどころに、同じように山へ向かうらしい年配の客たちが座っていた。皆、少しずつ似た格好で、少しずつ違う眠り方をしていた。

「予報、見た?」

席に着くなり、千景が言った。

「見てない」
「午後から、ところによりにわか雨。三割だって」

三割、という数字を、遍はしばらく胸の中で転がした。降るかもしれないし、降らないかもしれない。要するに、そういうことらしかった。分からないことを、分からないままの形で手渡してくる数字だった。遍は、その数字の不親切さが、なぜか嫌いではなかった。

千景は、膝の上でカメラの裏蓋を開けた。新しいフィルムの先を細い溝に差し込み、レバーを二度、三度と巻き上げる。指先の動きには、迷いがひとつもなかった。何百回と繰り返してきたらしい手つきだった。見られていることに気づいた千景が、手を止めずに言った。

「最初の二枚は、捨てるの」
「捨てる」
「蓋を開けたときに、光が入ってるから。ここから先が、本番」

窓の外を、町が流れていった。家並みが低くなり、田が増え、やがて線路の両側に、山の裾が近づいてきた。トンネルをひとつ抜けるたびに、窓の光の色が、少しずつ変わっていく気がした。千景は途中、鞄から小さな手帳を出して頁を開き、短いあいだ、何かを確かめていた。細かい字が縦に並んでいるのが、ちらりと見えた。買い物の控えのようにも、目次のようにも見えた。千景はそのうちの一行を指の先でなぞり、手帳を閉じて、鞄に戻した。何の手帳なのか、遍は聞かなかった。聞くより先に、電車が減速を始めたからだった。

一時間ほどで、二人は終点近くの小さな駅で降りた。駅前には土産物屋が数軒あるだけで、あとは山に向かう一本道が延びているばかりだった。

登山口には、色の褪せた案内板が立っていた。手描きの地図に、展望台までの道のりが書き添えられている。日に焼けて、字の半分は読みにくくなっていた。案内板の脇には木の箱が置かれ、杖代わりの枝が何本も差し込まれていた。ご自由にお使いください、と蓋に書いてある。千景は、そのうちの一本を迷わず引き抜いて、遍に差し出した。

「持っておくと、下りが楽」
「そっちは」
「私は、慣れてるから」

遍は、渡された枝を握ってみた。握りの部分だけが、黒く艶を帯びていた。何人もの知らない手が、同じ場所を握ってきたらしかった。

登山口までの道は、舗装されていたが、勾配がきつかった。遍は、大学に入ってから運動らしい運動をしていなかった。十五分も歩かないうちに、額に汗が滲んできた。

「きつい」
「まだ入り口」

千景は、涼しい顔で先を歩いていた。カメラの重さを感じさせない足取りだった。遍は、その背中を見ながら、自分の呼吸の乱れに、少しだけ戸惑った。息が上がるということが、こんなにも具体的な不快であることを、遍はこれまで、あまり知らなかった。不快、というよりも、それは奇妙な眩しさに似ていた。自分の体が、自分の思う通りに動かない——ただそれだけのことが、遍には新鮮だった。

何度か立ち止まって水を飲んだ。ペットボトルの水は、山を登るごとに、量が目に見えて減っていった。減っていく水の量を確かめるという行為に、遍はまだ慣れていなかった。減れば、また買い足せばいい。頭ではそう分かっていても、残量を気にする指先の感覚だけは、理屈より先に、遍の中に根を張り始めていた。

山道に入ると、木々の匂いが濃くなった。土の湿り気、朽ちた葉の匂い、遠くで鳴く鳥の声。千景は、道すがら、何度かレンズを構えては、シャッターを切った。木漏れ日の落ち方、朽ちた切り株に生えた苔、道の脇に転がる、誰かが置き忘れたらしい軍手の片方。

「そんなものまで撮るんだ」
「そんなものが、いちばん撮りたいの。誰かの生活の切れ端が、こういうところに、ぽつんと落ちてるのが好き」

遍は、その軍手を見た。特に変わったところのない、ただの片方だけの軍手だった。だが、千景のファインダー越しに見ると、それは何か違うものに見える気がした。

途中、休憩用のベンチで、初老の夫婦とすれ違った。二人は、遍たちに軽く会釈をして、「頂上まで、あと半分くらいですよ」と教えてくれた。妻の方が大きなリュックを背負い、夫の方は、双眼鏡だけを首から提げていた。二人の歩調は、驚くほどぴったりと揃っていた。長年、同じ速さで歩くことに慣れた足取りだった。

「歩幅、揃うんだ、あれくらい歩くと」

千景が、独り言のように呟いた。遍は、何と答えていいか分からず、黙って頷いただけだった。

二時間ほど歩いて、展望台に着いた。眼下に、街と、その向こうに霞んだ海が見えた。空は薄曇りで、遠くの山肌に、灰色の雲がゆっくりと流れていた。

「あれ、撮りたかったの」

千景が指したのは、遠くの山の稜線に沿って動く、雲の影だった。地面の上を、影がゆっくりと這うように移動していく。

「雲そのものより、影の方が、好き」
「影」
「雲は形が変わるけど、影は、地面の形に合わせて変わる。同じ雲でも、下にあるものが違えば、違う影になる。それが、面白いと思う」

展望台のベンチに腰を下ろし、二人は持参した昼を広げた。千景のリュックの底で、ラップに包んだ梅干しのおにぎりが、少し潰れて三角ではなくなっていた。

「潰れてる」
「潰れても、味は同じ」

似たようなことを、つい先日、誰かに言われた気がした。母の顔が、なぜか一瞬だけ頭をかすめたが、理由まではうまく思い出せなかった。遍は、それ以上考えるのをやめて、コンビニの握り飯を丁寧に頬張った。梅干しの酸味が、歩いた後の疲れに、思いのほかよく効いた。

食べ終える頃、千景がおもむろに立ち上がり、三脚をリュックから取り出した。遍は、少し離れた岩に腰を下ろし、その様子を眺めた。三脚の脚を、千景は一本ずつ、丁寧に地面に据えた。傾きがないか、水平器代わりの小さな泡管を、何度も覗き込んで確かめている。妥協のない手つきだった。

準備が整うと、千景はファインダーを覗き込んだまま、しばらく動かなかった。雲の影が、狙った位置まで動いてくるのを、待っているらしかった。待っているあいだの千景は、置物のように静かだった。やがて、シャッター音が、静かな山の中に、小さく響いた。

「覗いてみる?」

千景が、三脚から半歩引いて、場所を譲った。遍は、腰をかがめて、ファインダーに片目を寄せた。四角い枠の中に、さっきまで見ていたのと同じ景色が、少しだけ違うものとして収まっていた。同じ山、同じ空、同じ雲の影。ただ四辺で区切られただけで、景色は、眺めるものから、選ばれたものに変わっていた。枠の外を捨てた分だけ、枠の中が濃くなる。そういう理屈になっているらしかった。

「不思議」
「でしょう」

千景の声が、少しだけ得意げに聞こえた。

「常盤も、こっち」

千景がフレームの端を指した。遍は、言われるままに、示された場所に立った。

「何も、しなくていい。ただ、そこにいて」

何も求められないまま、レンズの前に立つというのは、妙な感覚だった。遍は、これまでの人生で、誰かに「見られる」ということに、慣れていなかった。世界は、いつも遍を見ないふりをしてきた。今、千景のレンズだけが、まっすぐに遍を見ていた。

シャッターが切られた。乾いた音が、一度、響いた。

「もう一枚、いい」
「いくらでも」

千景は、角度を変えて、もう一枚撮った。フィルムを巻き上げるレバーの、かちり、という音が、静かな山の中でやけに大きく聞こえた。

「今日のも、変に写ると思う?」

遍が聞くと、千景は、ファインダーから顔を上げずに答えた。

「分からない。フィルムは、現像するまで、誰にも分からない。撮った本人にも」

撮った本人にも分からないものが、鞄の中で三十六枚ぶん、静かに眠っている。遍は、その言い方を、胸の中で繰り返した。

「フィルムって、もったいなくないの。失敗したら、撮り直せないのに」
「撮り直せないから、いいの。デジタルだと、何百枚撮っても、本当に撮りたい一枚がどれか、分からなくなる。フィルムは、一本に三十六枚しかないから、一枚ごとに、ちゃんと選んでる感じがする」

遍は、その言葉を、しばらく考えた。選べる回数が少ないことのほうが、豊かである。そういう考え方を、遍はこれまでしたことがなかった。

昼を過ぎた頃、空の色が変わり始めた。灰色だった雲が、より濃い色を帯び、山の向こうから、湿った風が吹き始めた。

「降りそう」
「もう少し、粘りたい」

千景は、最後にもう一枚だけ、と言って、カメラを構え直した。その直後、遠くで雷が鳴った。低く、長く尾を引く音だった。

千景は三脚を素早く畳み、カメラを両手で胸に抱え込んだ。遍は、千景のリュックを引ったくるように背負い、走り出した。足元の砂利が、雨粒の重みで、既にぱらぱらと弾け始めていた。

二人が展望台の東屋に駆け込むのと、最初の大粒が地面を叩くのは、ほとんど同時だった。

雨は、あっという間に本降りになった。屋根を叩く音が、会話をかき消すほどになった。乾いた土が最初の雨を吸い込むときの匂いが、東屋の下まで満ちてきた。気温が、目に見えて下がっていく。遍と千景は、東屋の下に並んで立ち、白く煙る山道を眺めた。

「すごい降り方」
「山の天気って、こういうもの」

眼下に見えていたはずの街も、海も、白い雨の膜の向こうに消えてしまっていた。さっきまで千景が三脚を据えていた場所は、もう水たまりになりかけている。遍は、あの雲の影を、もう二度と同じ形では見られないだろうと思った。次に晴れても、同じ雲は流れてこない。

「撮れてよかった、さっきの」
「うん。あと少し粘ってたら、危なかった」

千景は、リュックの中のカメラの位置を、雨から守るように、もう一度確かめた。その仕草には、迷いがなかった。何を最優先で守るべきか、身体が覚えているような動きだった。

千景は、リュックから雨具を取り出そうとして、手を止めた。取り出したビニールの合羽は、一人分しかなかった。

「一つしかない」
「じゃあ、いい」
「濡れるよ」
「知ってる」

千景は、合羽を広げず、そのまま鞄の中に戻した。遍は、その仕草を、しばらく黙って見ていた。

「濡れたくないなら、避けるはずだよね」
「濡れたくて濡れる雨は、ないよ」

千景は、東屋の屋根から外に手を伸ばし、掌に雨粒を受けながら、続けた。

「でも、来ちゃったものは、来ちゃったものだから。それだけの話」

遍は、その言葉を、しばらく胸の中で繰り返した。単純な言葉だった。だが、単純であることと、軽いことは、違う気がした。

稲光が、遠くの空を走った。千景が、小さく数を数え始めた。一、二、三——低い音が、山の斜面を転がるように届いた。

「三つ。まだ遠い」
「何、それ」
「光ってから、音が来るまで。数えた分だけ、雷は遠くにいる」

次の稲光で、遍も、自分で数えてみた。一、二、三、四。音は、さっきより一拍遅れて届いた。数えているあいだだけ、雷は、正体の分からないものではなく、距離のあるものになった。分からないものに数え方をひとつ与えるだけで、これほど落ち着くのかと、遍は妙なところに感心した。

千景は、東屋の柱にもたれ、白く煙る景色に向かって、一枚だけシャッターを切った。三十六枚のうちの貴重な一枚を、雨に使った。何が写るのか、遍には見当もつかなかった。千景にも、たぶん、ついていなかった。

雨脚は弱まる気配がなかった。二人は、しばらく東屋の下で雨宿りを続けたが、日が傾き始めていることに気づき、濡れるのを覚悟で、山を下りることにした。

千景は、リュックを開けて、さっき仕舞ったばかりの合羽をもう一度取り出した。着るのかと思ったら、違った。千景は、合羽を広げて、カメラをくるんだ。丁寧に、隙間なく、何重にも。一人分の雨具は、結局、どちらの肩にもかからないまま、カメラの包み布になった。

「それが、いちばん濡れたら困るんだ」
「濡れても乾くものと、濡れたら終わりのものがある。それだけ」

千景は、東屋の縁で一度だけ空を見上げ、それから、ためらいのない足取りで、雨の中へ出た。二歩目で、もう肩まで濡れていた。振り返った千景の顔は、笑っていた。

「だから、いいの」

だから、の前に何が省かれているのか、遍には分かった。

遍は、枝の杖を握り直して、雨の中へ踏み出した。最初のひと呼吸で、髪から首筋まで、水の膜が張った。冷たさは、思っていたよりも痛みに近く、痛みは、思っていたよりも短かった。ひとたび濡れきってしまうと、雨は、もう避けるものではなくなった。

山道は、あっという間にぬかるんだ。遍のスニーカーは、一歩ごとに重くなっていく泥を吸い込んだ。登りには聞こえなかった沢の音が、太くなっていた。茶色く濁った水が、石のあいだを急いで下っていく。同じ道のはずなのに、雨の一時間で、山は別の顔になっていた。

途中、遍は、木の根に足を取られて、大きく体勢を崩した。とっさに杖をついたが、先が泥に潜って、支えにならなかった。そのまま尻もちをつきそうになる。千景が、笑いながら手を差し出した。

「大丈夫」
「大丈夫」

遍は、その手を借りて、体勢を立て直した。掌に触れた千景の手は、驚くほど冷たかった。冷たい、というだけの、それだけの感触が、しばらく遍の掌に残った。

登山口まで下りる頃には、雨は、来たときと同じ唐突さで、上がりかけていた。遍は、借りた枝の杖を、木の箱に戻した。濡れた握りの部分が、また少しだけ、黒くなった気がした。

二人とも、全身がずぶ濡れだった。髪から水が滴り、服が肌に張りついていた。

「盛大に降られたね」
「降られた」

千景は、髪をかき上げながら、笑った。屈託のない笑い方だった。遍は、その笑顔を見て、自分の中の何かが、少しだけ緩むのを感じた。

駅までの一本道の途中に、自動販売機が一台、ぽつんと立っていた。ボタンの並びの端に、季節外れの「あたたかい」が、一列だけ残っていた。遍は、小銭を入れて、缶を二本買った。倉庫で稼いだ金の、残りだった。

「はい」
「ありがと」

冷えきった指に、缶の熱が、ゆっくりと移ってきた。飲む前から、指の方が先にあたたまっていく。遍は、缶を両手で包んだまま、しばらく飲まずにいた。熱が指に移っていく、そのあいだの時間が、飲むことと同じくらい、惜しかった。

駅舎には、他に誰もいなかった。次の上りの電車まで、まだ二十分近くあった。待合の長椅子に並んで座ると、濡れた服から、足元に小さな水たまりができ始めた。

千景は、リュックの奥から畳んだ手拭いを出して、遍に放って寄越した。

「使って。私は、着替えるから」

千景が駅舎の隅の手洗いに消えているあいだ、遍は手拭いで髪を拭いた。乾いた布が水を吸っていく分だけ、頭が軽くなっていく気がした。着替えを持ってくるという発想が、今朝の自分には、なかった。山だから、と言った千景のリュックの重さの意味が、一日の終わりになって、ようやく全部つながった。

戻ってきた千景は、乾いたシャツに着替えていた。濡れた方の服をビニール袋に押し込みながら、長椅子に座り直す。そのとき、リュックの前の口から、小さなカードが一枚、床に滑り落ちた。

遍は、反射的にそれを拾った。

手にした瞬間、それが何か分かった。病院の診察券だった。「眼科」という文字と、千景の名前、通し番号らしき数字が印字されている。裏には、次回の診察予定日が、判子で押されていた。日付は、来月だった。判子の並び方から、それが一度や二度の通院ではないことが、遍にも分かった。

千景が、遍の手からカードを引き取った。動作は速かったが、乱暴ではなかった。ただ、日常の中で何百回と繰り返してきたらしい、慣れた素早さだった。

「ありがとう」

それだけだった。千景は、カードを鞄の内ポケットにしまい、それ以上は何も言わなかった。遍も、何も聞かなかった。

聞いてはいけない、と思ったわけではない。ただ、千景の指がカードをしまう、その一連の動きの静かさに、遍は何かを感じ取っていた。踏み込んではいけない場所がある、ということを、遍は理屈ではなく、肌で理解した。

電車が来るまでのあいだ、二人は特に会話をしなかった。並んで長椅子に座っているだけだった。ホームの庇から、雨あがりの雫が、ひとつ、またひとつ、落ちていた。遍は、手の中の缶の残りの熱を、ただ確かめていた。何かをしたい、という気持ちだけが、行き場をなくして、胸の中に残った。

車内の冷房が、濡れた服にじわじわと染みた。今度は、身震いをするのは、遍の番だった。隣の千景は、乾いたシャツの肩で窓にもたれ、目を閉じていた。眠っているのか、そうでないのか、遍には判別がつかなかった。

遍は、窓の外を見た。夕立の名残の雲が、茜色に染まりながら、ゆっくりと崩れていくところだった。

濡れたくて濡れる雨は、ない。だから、いい。

千景の言葉が、遍の中で、まだ形を保ったまま残っていた。

遍は、これまでの人生で、雨にまるごと降られたことが、数えるほどしかなかった。覚えている限りでは、少し前に、自転車で大学へ向かう朝に、一度。あのときも、避けようのなさに、苛立ちと、うまく言えない安堵が、同時に湧いた。それより前の記憶を辿ろうとすると、輪郭は急に頼りなくなる。ただ、いつも、なぜか一歩先で、雨はやんでいた——そんな気がする、という、あやふやな感触だけが残った。

今日は、違った。今日は、逃げ場もなく、真正面から降られた。

その違いが、遍には、うまく言葉にできない何かを連れてきていた。全身が濡れて重いという不快さの奥に、これまで知らなかった種類の、静かな満足のようなものがあった。

電車が駅に着き、千景が目を開けた。

「また、撮らせて」
「うん。今日の、現像できたら、見せて」

千景は、一瞬だけ、遍の顔を見た。それから、頷いた。

「見せる。変に写ってても、写ってなくても」

千景は鞄を抱え直し、ホームに降りていった。遍は、窓越しに、その後ろ姿が改札の向こうに消えるまで、見送った。

家に着き、濡れた服を脱ぎながら、遍は、診察券の文字を、もう一度思い出そうとした。眼科。次回の日付。判子の並び。それ以上の情報は、どこにもなかった。

何の病気か、遍は知らない。知ろうと思えば、何をどう調べればいいのかさえ、分からなかった。ただ、あの判子の並び方だけが、まだ目の裏に残っていた。

遍は、濡れた服を洗濯機に放り込み、風呂の湯を溜め始めた。蛇口から出る湯は、いつも通り、ちょうどいい温度だった。今日ばかりは、そのことに、少しだけ苛立ちに似たものを覚えた。山ではあれほど何もかもがままならなかったのに、家に帰れば、また元通りだった。

湯船に浸かりながら、今日一日のことを、順番に思い返した。山道の匂い。雲の影。シャッターの音。数えるあいだだけ遠くなる雷。雨に打たれた重み。缶の熱が指に移る速さ。千景の、冷たい掌の感触。診察券の、乾いた紙の感触。

どれも、遍の中に、まだ新しい手触りのまま残っていた。中でも、雨に降られた、あの数十分だけは、他のどの記憶よりも、輪郭がはっきりしていた。逃げ場のない雨に、真正面から打たれる。それだけのことが、遍には、これまでのどんな一日よりも、確かな手触りを持って迫ってきた。

濡れたくて濡れる雨はない。だから、いい。千景の声が、湯気の向こうで、もう一度聞こえた気がした。

湯気の向こうで、窓の外はもう暗くなっていた。遍は、しばらく、その暗さを見つめていた。