MAMAKAMI

第七話 母の味

木曜恒例の母との夕食。古いアルバムに並ぶ子供時代の写真が、どれも少しだけ「上手すぎる」ことに遍は気づく——そして、初めて意識的に、確かめないことを選ぶ。

木曜日は、母の家で夕食を食べる日と決まっていた。誰が決めたのかは、遍にも分からない。気づいたときには、もうそういう習慣になっていた。

昼、遍は学食で迅と向かい合っていた。木曜の学食は日替わりが肉じゃがで、それを目当てにする学生で、列がいつもより長い。迅は大盛りの飯と肉じゃがと味噌汁を盆に載せ、席に着くなり、この前のバイト代がもう財布にないという話を始めた。何に使ったのかを順に数え上げていくうちに、途中で勘定が合わなくなったらしく、数えるのをやめた。

「まあいいや。無いもんは無い」

迅はそう締めくくって、飯を掻き込み始めた。それから、ふいに箸の先で皿を指した。

「肉じゃがってさ。うちのおふくろのやつ、じゃがいもが全部溶けてんの。煮すぎて。汁が濁ってて、肉なんかほとんど入ってなくて、探すと底の方から細切れが二、三枚出てくるだけでさ。ガキの頃はあれが嫌で嫌でよ、なんでうちの肉じゃがには肉が無えんだって、けっこう本気で腹を立ててたんだけど」

迅はそこで味噌汁を啜り、椀の底を覗き込んだ。

「ここのを食ってると、あれが食いたくなるんだよな。ここのは肉がちゃんと入ってて、じゃがいもも四角いまんまなのに。不思議だよな」

「帰ればいいのに」

「帰んねえよ。片道六時間だぞ。それに帰ったら帰ったで、うるせえんだ。単位がどうとか、就職がどうとか」

迅の実家からは、季節ごとに米が届くという。米袋の隙間に、玉葱だの、新聞紙に包んだ干し芋だのが詰め込まれていて、送り状の品名の欄には、毎回「米ほか」とだけ書いてあるらしい。

「ほか、が本体なんだよな」

迅はそう言って笑った。

遍は、日替わりの肉じゃがを口に運んだ。じゃがいもは角が立ったまま、味は淡く、可もなく不可もなかった。食べてみるまで、濃いのか薄いのか、見当もつかなかった。そういうことのひとつひとつが、遍にはなぜか、いちいち新しかった。

その日最後の講義は、教授の私語で終わった。専門とは関係のない、若い頃に旅した国の話だった。学生の半分は机に突っ伏し、残りの半分はスマートフォンを覗いていた。遍は、どちらでもなく、話の続きが気になって、最後まで顔を上げていた。

講義室を出たところで、迅に呼び止められた。

「常盤、今日この後暇か。飯行こうぜ」
「今日は無理。実家」
「木曜だもんな。相変わらず律儀だな、お前」

迅は特に気にした様子もなく、じゃあまた、と手を振って、廊下の向こうへ消えていった。その後ろ姿を見送ってから、遍は駅への道を歩き出した。

大学からの帰り道、遍は商店街の和菓子屋に寄った。母は甘いものにうるさく、適当な土産を持っていくと、口には出さずに眉だけで感想を伝えてくる。今日は評判のいい店の大福を買うつもりだった。だが、店先には「本日分、完売しました」の札が下がっていた。

硝子戸の向こうで、店主の老人が暖簾を片付けているところだった。目が合うと、老人は少し困った顔で会釈をした。

「兄さん、いつもの大福、今日はもう」
「はい、見えました」
「よく来てくれるのに、悪いね」

いつもの、と言われたことに、遍は少しだけ驚いた。この店には、たしか三度ほどしか来ていない。それでも老人は、遍の顔をちゃんと覚えているらしかった。当たり前のことのはずなのに、遍にはそれが、ほんの少し珍しいことのように感じられた。理由は自分でも分からなかった。

迅なら舌打ちのひとつもするところだろう。遍は札を見て、少しのあいだそこに立っていた。悔しさというほどのものはなく、ただ、思い描いていた夕方の形が一つ崩れて、代わりに何も埋まっていない場所ができた、という感じがした。隣の店で、日持ちのする煎餅を買った。これはこれで、母は喜ぶだろうとは思ったが、大福のことは、電車の中でも少しだけ引っかかっていた。

母の家は、大学から電車で三十分ほどの、古い住宅地にある。木造二階建て、庭に小さな柿の木が一本。遍が物心ついたときから、ずっとこの家だった。

駅を出ると、日はもうだいぶ傾いていた。母の家までは、歩いて十分ほどの道のりになる。夕方の住宅地は、夕食の匂いの通り道だった。角の家からは揚げ物の油の匂いがし、その二軒先からは魚を焼く煙が漂い、どこかの開いた窓からは、カレーの匂いが道の真ん中まではみ出していた。家ごとに、匂いの種類も濃さも違う。どこかで子供を呼ぶ声がして、遠くから、間延びした返事があった。

歩きながら、遍は今夜の母の献立を、玄関に着く前に当てられるだろうかと考えた。門の前に立った時点では、まだ分からなかった。分からないまま戸を開けるのが、遍はなぜか、嫌いではなかった。

門をくぐると、柿の木の葉が、夕風に小さく揺れていた。実はまだ青く、固い。毎年この時期は、まだ食べられるほどには熟れていない。それも、遍が物心ついた頃から変わらない、この庭の時間の流れ方だった。どこかで烏が一声鳴き、それきり静かになった。

玄関を開けると、味噌と生姜の匂いが廊下まで届いていた。

「ただいま」
「おかえり」

台所から、母のこのはの声がした。振り返りもせず、鍋の中を覗き込んだままの声だった。遍は靴を脱ぎ、台所を覗く。今日は豚汁らしい。湯気の向こうで、大きな鍋がことこと音を立てている。

「煎餅、買ってきた」
「大福じゃないの」
「売り切れてた」

このはは、菜箸を持ったまま、ちらりとこちらを見て、小さく笑った。

「珍しいこと。あの店、いつも余ってるのに」
「今日はよく売れたみたい」

このはは、それ以上追及せず、菜箸を鍋に戻した。遍は上着を脱いで、台所の入り口に立ったまま、鍋の中を覗き込んだ。

「手伝おうか」
「じゃあ、大根切って」

まな板を渡され、遍は大根の皮を剥き始めた。母はいつも、大根を厚めに切る。理由は分からない。ただ、薄いと物足りない、というだけのことだった。真似をして厚く切ろうとしたが、包丁の重さに慣れず、一切れだけ、やけに歪な形になった。

「下手」
「うるさい」

このはは笑いながら、歪な一切れを摘み上げて、そのまま鍋に放り込んだ。

「形が悪くても、味は変わらないから」
「そういうものなんだ」
「そういうもの」

遍は残りを切り終え、まな板を洗い場に運んだ。蛇口をひねると、水はすぐに、ちょうどいい温度で出てきた。冷たすぎず、ぬるすぎず。手を洗うのに、ちょうどいい温度。遍はそのことに、一瞬だけ気を取られた。蛇口を捻ってから湯が出るまでには、いつも少し間があるはずだった。今日はその間が、なかった気がした。気のせいだろう、と遍は思い、それ以上は考えなかった。

卓袱台には、いつもの位置に、いつもの箸が置かれていた。遍がその席に着くと、板の間の軋む音まで、いつも同じ場所で鳴った。

食事は、いつも通りに始まった。豚汁、焼き魚、ほうれん草のお浸し。このはは遍の茶碗に飯をよそいながら、今日あった近所の話をした。

豚汁を一口飲むと、椀の底から、さっきの歪な大根が出てきた。厚みも形も不揃いなのに、口に入れると、他の大根と同じ味がした。形が悪くても、味は変わらない。母の言った通りだった。

「角の家の犬、今日病院連れてかれたんですって」
「悪いの、どこか」
「腰らしいわよ。年だから、しょうがないわねって、奥さん言ってた」
「あの犬、もう何歳」
「十四か十五か。人間で言えばもう、おじいちゃんね」

このはは、そう言って、里芋を箸で割った。里芋は、箸を入れると抵抗なくほろりと崩れた。煮え加減も、いつもちょうどよかった。

「八百屋さんは、相変わらず孫の話ばっかり」
「今度はどんな話」
「運動会で一等取ったんですって。もう、写真を五枚も見せられて大変だったの。どれもぶれてるのよ。肝心のお孫さんが、豆粒みたいに小さくて。でもおじいちゃん、いちばんぶれてる一枚を、これが一等の瞬間だって言って、離さないの」

このはは、さも大変だったという顔で、楽しそうに話した。

隣町に新しくできた自転車屋の話、駅前の工事がまた延びている話。どれも、聞いてすぐに忘れてしまうような話だった。だが、遍はその話を、いつも少し長めに覚えておこうとする癖があった。理由は自分でも説明がつかない。

「そういえば、庭の柿、今年は実が多いのよ」と、このはが言った。「秋になったら、持っていきなさい」
「まだ固そうだった」
「当たり前でしょう、まだ夏よ」

このはは笑ってから、思い出したように付け足した。

「あんた、小さい頃、あの柿を青いまま齧ったのよ。渋くて渋くて、ものすごい顔になって、それでも意地になって飲み込んで。覚えてる?」
「……なんとなく」

覚えていた。なんとなく、どころではなかった。青い実の固さ。皮の下の白さ。舌の根が縮み上がるような渋さと、縁側でそれを見て笑っていた母の声。目を閉じれば、そのまま一枚の絵になりそうなほど、記憶は鮮明だった。あの日の庭の、光の加減まで思い出せる気がした。

「あれから、あんた、柿だけは色をよく見るようになったのよね」
「そうだったかな」
「そうよ。母親は知ってるの」

このはは、少し得意げにそう言って、魚の骨を器用に外した。

「大学はどう」
「普通」
「普通って」

このはが笑う。遍は箸を止めて、少し考えるふりをした。

「迅が、また単位を落としそうにしてる」
「相変わらずね」
「相変わらず」

会話はそれ以上続かなかった。続かなくても、間が気まずくならないのが、この卓袱台の良いところだった。このはは、遍が黙っていても平気で、遍もこのはが黙っていても平気だった。沈黙が、ただの沈黙のまま、そこに置かれていた。

食後、二人で洗い物をした。このはが洗い、遍が拭く。この分担も、いつからか決まっていた。皿を受け取るたび、遍は布巾で丁寧に水気を取った。一枚だけ、手が滑って落としかけたが、指先が思いのほか素早く動いて、事なきを得た。危なかった、と遍は思ったが、このはは気づかず、次の皿を差し出していた。

洗い物を終え、二人で居間に移った。点けっぱなしのテレビが、夕方のニュースを映していた。全国どこかの町の、盆踊りの練習風景。このはは、それを横目で見ながら、湯を沸かしにまた台所へ立った。

遍は、座布団に座って、しばらくその映像を眺めていた。知らない町の、知らない太鼓の音。誰かが振り付けを間違えて、隣の人に小突かれている。取るに足らない映像だった。だが、こういう、何でもない時間が、遍は嫌いではなかった。理由を言葉にしたことはない。ただ、そうだった。

湯呑みを二つ持って、このはが戻ってきた。茶を飲みながら、ニュースはやがて別の話題に移り、二人ともそれをぼんやりと眺めた。話すこともなく、話さないことに困ることもない時間だった。

茶を飲み終える頃、このはが思い出したように言った。

「そういえば、押し入れ、片付けてたら、古いアルバムが出てきたのよ」

卓袱台の隅に、古びた表紙のアルバムが置かれた。表紙の隅が少し反っている。遍は湯呑みを片手に、それを引き寄せた。

頁をめくると、赤ん坊の頃の自分がいた。産着に包まれ、目を閉じている。次の頁には、初めて立った日の写真。よちよちと歩き出す一瞬が、ぶれもせず切り取られている。その次には、七五三の着物姿。神社の階段の途中で、光の加減がちょうどよく、着物の柄まで鮮明に写っていた。

台紙をめくるたび、古い糊の匂いがした。写真を押さえるセロハンの角が、ところどころ浮いて、指先に引っかかる。写真の下には、白いペンで日付が添えられていた。年と月と日。どの頁の字も、母の字だった。

遍は、写真の一枚一枚を、丁寧にめくっていった。砂場で遊ぶ幼い自分と、隣にしゃがむ若い頃のこのは。小学校の入学式、桜を背にした一枚。海辺で貝殻を拾う後ろ姿。夏祭りの夜、金魚すくいの屋台の前で、水面に映る提灯の灯りごと写り込んだ一枚。どれも、見覚えのある光景だった。だが、めくっていくうちに、遍の指が、ある頁で止まった。

運動会の写真だった。徒競走の最中らしく、遍が写真の中央で腕を振っている。その構図が、妙に整っていた。走る子供の傾き、背景に並ぶ他の親たちの立ち位置、光の当たり方——素人が偶然撮ったにしては、あまりにも収まりが良すぎる気がした。

さっき聞いたばかりの、八百屋の孫の写真の話を、遍はふと思い出した。ぶれて、豆粒のようにしか写っていなくて、それでも店主が離さないという五枚。写真というのは、本当は、ああいうものなのだろう。誰かの頭が半分切れていたり、肝心の瞬間が一秒ずれていたり。遍の手元にあるこの一枚には、そういう雑然とした部分が、どこにもなかった。

次の頁の、誕生日ケーキを前にした写真も、そうだった。ろうそくの炎の映り込み方、遍とこのはの顔の角度、背景の壁紙の柄まで、まるで計算されたように画面に収まっている。

「これ、誰が撮ったの」

遍は、何気ない調子で聞いたつもりだった。このはは、湯呑みに口をつけながら、こともなげに答えた。

「お父さんよ」

それだけだった。父、という単語が、遍の中で、いつもと違う手触りをした。父についての記憶を、遍は持っていない。持っていないことに、これまで疑問を感じたこともなかった。

「上手だったんだね、写真」
「まあ、そうね」

このはの声に、それ以上の色はなかった。遍は頁をめくり続けた。どの写真も、上手すぎた。子供の成長記録にしては、構図が整いすぎていた。まるで、失敗した一枚がこの世に一枚も存在しないかのように。

遍は、その違和感を、言葉にしようとして、やめた。言葉にした瞬間、何かが変わってしまう気がした。何が変わるのか、具体的には分からない。ただ、卓袱台の上のこの静けさが、少しでも動いてしまうことが、遍には惜しかった。

このはが、湯呑みを置いて言った。

「懐かしいでしょう」
「うん」

遍は頷いた。頷きながら、頁の隅の、少し反った紙の感触を指先で確かめた。古い紙の匂いがした。それは、確かに懐かしい匂いだった。懐かしさだけは、本物だった。

遍は、それ以上アルバムをめくらず、静かに閉じた。

調べようと思えば、いくらでも調べられることのように思えた。父のことを聞き出すことも、写真の裏を確かめることも、母に問い詰めることも。だが、遍はそのどれもしなかった。

このはが、台所へ湯呑みを下げに立った。後ろ姿は、いつもと変わらなかった。少し猫背で、割烹着の紐が、いつも少し斜めに結ばれている。遍はその後ろ姿を、しばらく眺めていた。

台所から、水を流す音がした。皿を洗う、いつもの音だった。遍は、その音を聞きながら、アルバムの表紙を、指の腹でもう一度なぞった。

表紙をなぞりながら、遍は考えた。今このアルバムを持ち帰って、もっとゆっくり眺めることもできる。写真の裏に、日付か何かが書かれていないか、確かめることもできる。だが、そうした瞬間に、この卓袱台の上にあるものが、何か違うものに変わってしまう気がした。変わってほしくないものが、遍にはいくつかあり、母との木曜日は、その筆頭だった。

遍は、アルバムを、そっと元の場所に戻した。

帰り際、このはが玄関先まで見送りに出た。台所から持ってきた小さな包みを、遍の鞄に押し込む。

「残りもの、少し持っていきなさい」
「いつも悪いね」
「いいから」

いつものやり取りだった。断っても無駄なことは、遍もよく知っていた。

「気をつけて帰りなさいよ」
「うん」

いつもの言葉だった。何百回と聞いてきたはずの言葉。だが、今夜はその言葉が、いつもより少しだけ、長く耳に残った。

駅までの道を、遍は一人で歩いた。街灯の下を通るたび、自分の影が伸びたり縮んだりする。その様子を、遍はぼんやり眺めながら歩いた。

途中、小さな稲荷神社の前を通った。鳥居の朱色が、街灯に照らされて、昼間よりも濃く見える。誰かが供えたらしい、みかんが一つ、賽銭箱の脇に置かれていた。遍は足を止めず、そのまま通り過ぎた。振り返ると、鳥居の向こうの闇が、思いのほか深かった。

商店街はもう半分近くの店が閉まっていた。開いている定食屋の窓から、テレビの音と、笑い声が漏れていた。遍はその前を通り過ぎながら、中の様子を少しだけ覗いた。カウンターに座った数人の客が、何かの話で盛り上がっている。誰かの人生の、ある一夜の続きが、そこにあった。遍には関係のない一夜だったが、通り過ぎる一瞬だけ、その笑い声のおこぼれに与れた気がした。

定食屋の先に、小さな公園があった。誰もいないのに、ブランコがひとつ、まだ小さく揺れて、鎖の軋む音を立てていた。ついさっきまで、誰かが漕いでいたらしい。砂場には掘りかけの山が残り、青いシャベルが一本、忘れられたまま刺さっていた。持ち主は今頃、どこかの家の食卓で、手を洗いなさいと言われている頃だろう。明日、あの子はシャベルを取りに戻ってくるのかもしれないし、忘れたまま新しい遊びを始めるのかもしれない。どちらになるのか、遍には分からなかった。分からないことが、街灯の下に、ひとつ置いてあった。

電車を待つ間、遍はホームのベンチに座った。買ってきた煎餅の残りを、鞄の中で確かめる。母は喜んでいた。それは確かだった。

父の写真の構図のことを、遍はもう一度思い出した。上手すぎる、という感覚を、うまく言葉にできない。下手な写真なら、いくらでも見たことがある。手ぶれ、ピンぼけ、首の切れた構図。だが、あのアルバムには、そういう失敗が一枚もなかった。

それは、単に父が写真の上手い人だった、というだけの話かもしれない。世の中には、そういう人もいるだろう。遍は自分にそう言い聞かせようとした。だが、言い聞かせている自分自身に、遍はどこかで気づいていた。

ベンチの隣に、老婦人が腰掛けた。膝の上に、小さな紙袋を大事そうに抱えている。孫への土産だろうか、と遍は思ったが、聞きはしなかった。老婦人は、電車が来るまでのあいだ、ずっと紙袋の口を確かめ続けていた。中身がこぼれていないか、何度も、何度も。遍はその仕草を、なんとなく見ていた。大事なものを確かめる手つきというのは、みな似ている。そう思ったところで、電車が滑り込んできた。

遍は乗り込み、窓際の席に座った。老婦人は隣の車両に乗ったらしく、姿が見えなくなった。

窓ガラスに、自分の顔が薄く映っている。夜の車窓は、いつもそうだ。景色と自分の顔が、同じ場所に重なって見える。遍は、その二重写しの顔を、しばらく見つめた。

ふと、古い記憶が浮かんだ。幼い頃、自転車の練習をしていて、転びかけたことがある。誰かが後ろで支えてくれていた気がする。振り返った記憶はない。ただ、倒れる寸前に、背中に手のひらの感触があったことだけを、遍は覚えていた。あれは父だったのか、母だったのか、それとも近所の誰かだったのか。確かめる術は、もうどこにもない。

確かめられない記憶は、確かめた記憶よりも、なぜか手放しがたい重みを持つ。

遍はそんなことを思いながら、車窓の自分の顔を見つめ続けた。

柿の記憶のことも、浮かんだ。青い実を齧った日の、庭の光。あの記憶は、鮮明だった。鮮明すぎる、と言ってもよかった。思い出というものは、本当はもっと、端の欠けたものであるはずだった。手ぶれがあり、ピンぼけがあり、肝心なところが一秒ずれているはずだった。そこまで考えて、遍は、自分が記憶を写真の言葉で数えていることに気づいて、やめた。

アルバムのことを、確かめてみようか。そう思う自分と、確かめなくていい、と思う自分が、遍の中に同時にいた。写真の裏を見ることも、母に父のことを聞くことも、その気になれば、いつでもできる。できるからこそ、いつでもいい、と先送りにすることもできた。だが、先送りというのは、いつか確かめることを前提にした言葉だ。遍は、灯りの流れる窓の外を見ながら、二つの声を、しばらく聞き比べていた。

それから、決めた。

調べない。

決めた、という手応えが、指先まではっきりとあった。知らないことを、知らないままにしておくと、自分から決めるのは、たぶん、初めてのことだった。なぜそう決めたのか、遍には分からなかった。分からないのに、決めた途端、肩のあたりが少しだけ軽くなった。開けるかどうか迷っていた戸を、開けないと決めて、鍵ごと引き出しの奥に仕舞ったような、そういう軽さだった。

決めたことを、遍は誰にも言うつもりはなかった。言う相手も、いなかった。ただ、胸の内側の帳面に、短い一行が書き足されたような感触だけが、残った。

電車が動き出す。窓の外の家々の灯りが、後ろへ流れていく。遍はその灯りを、一つ一つ目で追った。どの窓の奥にも、誰かの夕食の続きがあるはずだった。

遍は、鞄の中の煎餅の袋を、もう一度指先で確かめた。硬い感触が、掌に伝わった。それだけは、確かなものだった。

アパートに着くと、部屋は出たときのまま、静かに冷えていた。遍は電気を点け、鞄から母の包みを取り出した。中身は、切り干し大根の煮物だった。冷蔵庫にしまいながら、遍はふと、さっきの豚汁の大根の厚さを思い出した。

台所の蛇口をひねり、コップに水を汲む。水は、いつもより少し、ぬるく出てきた気がした。気のせいだろう、と遍は思った。今日はそう思うことが、もう何度目かだった。

コップの水を飲み干し、遍は台所の灯りを消した。暗くなった部屋の中で、しばらく、その場に立ち尽くしていた。アルバムの表紙の、少し反った紙の感触が、まだ指先に残っている気がした。

遍は、その感触を確かめるように、指先を軽く握った。何も、握られてはいなかった。ただ、そこにあったはずの何かの形だけが、しばらく掌に残っていた。