MAMAKAMI
終章 前回の私へ
実験帳面の綴じ目から、前回の遍が遺した手紙が見つかる——「情が移っただろう。毎回そうだ。その情が本物かどうか、お前はもう調べられない」。第1巻の結び、そして第2巻への引き。
秋が深まり、母の家の柿が、ようやく色づき始めた。
その柿を撮らせてほしい、と千景が言い出したのは、数日前のことだった。写真学科の課題で、熟れる前の、渋くて食べられない実を撮っておきたいのだという。遍は、木曜の夕食のついでに、母に断りを入れた。このはは、あら、とだけ言って、たいして驚きもしなかった。当日は朝から縁側に座布団を並べ、庭には、どこから出してきたのか、小さな木の椅子まで運んであった。
「柿なんて撮って、何が面白いんだか」
口ではそう言いながら、このはは割烹着のまま、千景の作業を飽きずに眺めていた。時々、思い出したように茶と煎餅を運んでくる。千景はそのたびに律儀に頭を下げ、また屈み込んで、ファインダーを覗いた。
「この子ね、小さい頃、その柿を青いまま齧ったのよ」
茶を置きながら、このはが言った。千景が、初めて聞く顔で笑った。舌の根が縮み上がるほど渋かったこと。それでも意地になって飲み込んだこと。縁側で母が笑っていたこと。話に合わせて、遍の中で、あの日の庭の光までが、一枚の絵のように開いた。鮮明すぎる、と一度だけ思ったことのある記憶だった。今は、その鮮明さごと、そこに置いてある。
遍は、縁側に腰掛けて、二人を見ていた。
あの柿の渋がいつ抜けるのか、遍は知っている。千景がいま構えた一枚が、印画紙の上でどう焼き上がるのかも、露出の按配まで見えてしまう。ただ、焼き上がった何枚かの中から、千景がどの一枚を選ぶのかだけは、見えなかった。選ぶのは千景の目で、その目の奥は、遍の覗かないと決めた場所だった。
日が傾く頃、千景は帰っていった。門のところで、このはに深く頭を下げ、それから柿の木を、機材を仕舞ったあとの目で、もう一度だけ見上げていった。夕食は、いつも通りの味だった。帰り際、このはは色づきかけた実をふたつ、もいで持たせようとして、まだ渋いことを思い出し、一人で笑った。その夜、遍は久しぶりに、声を上げて笑った。理由は、自分でもうまく説明できなかった。
帰る前に、遍は二階の自分の部屋に上がり、机の引き出しの奥から、古い帳面を取り出して、鞄に入れた。実験が終われば、記録を綴じて締めくくる。日付。条件。結果。短い所感。何百回、何千回と繰り返してきた、ただの習慣だった。今回も、そうするつもりだった。ただ、締めくくりの一行だけは、三十日を過ごしたあの部屋で書きたかった。
アパートに戻り、卓袱台に帳面を広げ、四千七百十一の頁を開く。条件までは、あの前夜のうちに書いてある。空いているのは、結果と、所感の欄だった。
ペンを取って、遍は、結果の欄の前で手を止めた。
かつての頁には、「失敗」とだけ書かれ、その下に長い線の引かれたものがあった。あの二文字を書いた夜の自分が、どんな手つきでペンを走らせたのか、遍は覚えていない。ただ、今夜の自分にあの二文字が書けないことだけは、はっきりしていた。書けない理由なら、「成功」と書けない理由と、ちょうど同じ数だけあった。
ペンを置き、頁を後ろへ繰っていったときだった。指先が、綴じ目のかすかな膨らみに触れた。
帳面のいちばん奥、白紙の続く場所だった。挟んだ覚えなら、ある。実験の前夜、三十日の自分に宛てて書き置きを書きかけ、やめて、白紙のまま挟んで戻した一枚。だがその白紙は、挟んだ場所に、白紙のまま、ちゃんとあった。
膨らみは、そのさらに奥にあった。
綴じ紐の内側に、押し込まれるようにして、折りたたまれた紙が一枚、挟まっていた。
遍は、それを取り出した。
紙は、帳面の頁よりも古びていた。古びている、というより、年月の経ち方の質そのものが違っていた。折り目は、何度も開いては閉じられたもののように、柔らかく崩れていた。書いた者が読み返したのか。それとも、見つけた誰かが、何度も——遍は、そこで考えるのをやめた。この紙を折った記憶が、遍にはない。遍の記憶から、この一枚だけが、きれいに抜け落ちていた。
開いてみる。
一行目の字を見た瞬間、遍は、指を止めた。
自分の字だった。
癖まで、寸分違わず、自分の字だった。だが、インクの色が、今の遍の使うものと微妙に違う。紙も、もうこの世では漉かれていない種類のものだった。この帳面を埋めてきた、少しずつ違ういくつもの手。そのどれかの字のようでいて、めくって確かめれば、どの頁の手とも重ならない気がした。確かめは、しなかった。
遍は、卓袱台の上に、手紙を広げた。
「この手紙を読んでいるなら、今回も失敗だ」